さすがは大学教授、たしかに寛太郎さんの芝居を見て「よかった」という記憶は、20年以上経ったいまでも薄れていない。これは相当におトクな〝読後感〟だと言えそうである。
日本の喜劇の起源は、江戸時代、大坂に現れた「俄」にある。俄とは、即興で笑いを取るコメディアンであり、明治に入ると俄を職業とする人が現れて、千日前に俄専門の劇場までつくられるほどの人気となった。
その人気にあやかろうと歌舞伎の大部屋役者から俄の世界に転じたのが曽我廼家五郎と十郎であり、歌舞伎の持つストーリー性と俄の笑いを融合させて「喜劇」を創造した。
やがて、俄から生まれた大小様々なグループが合従連衡を繰り返す中から「松竹家庭劇」が生まれ、のちにこの劇団が松竹新喜劇へとつながっていく。
松竹新喜劇の全盛期は2代目渋谷天外と藤山寛美のコンビが活躍した昭和40年代から、寛美が亡くなる平成2(1990)年まで。「まで」と言い切れるのは、その後、寛美目当ての客足がパタリと途絶えてしまったからだ。栗田さんの言葉を借りれば、「寛美さんの存在があまりにも大きすぎて、喪失感は大きかった」ということである。
寛美亡き後、試行錯誤の時期が長く続いたが、この間、設立当初から「テレビ時代を睨んだ新たな演芸のビジネスモデル」(吉本新喜劇HPより)の構築を目指していた吉本新喜劇が、若者を中心に圧倒的な支持を獲得していく。いまや「大阪の笑い」といえば、多くの人が「よしもと」を思い浮かべるのではないか。
栗田さんが指摘するように「タイパが重視される現代、面白いかどうか観てみないとわからない(松竹新喜劇のような)長尺コンテンツは敬遠されがち」なのは確かだ。
しかしその一方で、刹那的で、そうであるがゆえに過激さやテンポの速さを競わざるを得ない消耗的な笑いに、世の中が食傷し始めているのも事実だろう。しかも、若い世代もそうなりつつあるというのが、筆者の見立てなのである。
かつての時代を知らない
若者には「新鮮」な喜劇
松竹新喜劇の新人俳優3人と会って、その思いを一層強くすることになった。
令和6(2024)年に入団した能勢優菜さん(26歳)は、数年前までごく普通の女子高生だった。父親が3代目渋谷天外の付き人をやっていたという縁はあったものの、松竹新喜劇のことはほとんど知らなかったという。特技は鼻爪楊枝。
「高校時代、演劇部で頑張っていたので女優になりたい思いはありましたが、テレビとかアニメが好きな、まったく今どきの女子高生でした」
入団のきっかけは、初めて新喜劇の舞台を見た時の強烈な印象だ。
「すごく面白かったし、とても新鮮に思えて感動したんです」
そう、藤山寛美をリアルに知らない世代にとって、松竹新喜劇は古めかしいどころか、「新鮮」なのだ。
「お芝居で感動させるだけでなく、笑わせることまでやってしまう役者さんたちを見て、すごいと思いました。憧れを抱くうちに、自分もやりたい! となったのです」
同じく令和6年に入団した山川大遥さん(16歳)は、なんと現役の高校生である。3歳から松竹芸能に所属して5歳で藤山直美と共演。小学3年にして「客席からの笑い声や拍手の音圧に元気をもらった」経験を持つ、生粋の舞台人だ。
山川さんも「現代っ子で、ショート動画などもよく見る」そうだが、保育園の頃から詩吟と能の仕舞を習っているというから驚く。
「3歳のときに詩吟の大会を観て、やりたい! と思ったんです。詩吟なんて小さい子には受けへんと思われてますが、小さい子が『したい、したい』と思うこともあるんです」
なるほど、古典芸能は若者に受けないというのは、大人の偏見なのか。
山川さんが大切にしているのは、ズバリ、笑いの質である。
