2025年12月5日(金)

Wedge REPORT

2025年5月31日

 これらの句が入った供養碑が建立されたのは、蔦重の死から2年後のことだった。追悼文を書いたのは蔦重の親友・石川雅望(まさもち)である。本名は糠屋七兵衛で、石川雅望は漢学者としての号だが、世間一般には狂名(連歌師としての号)の「宿屋飯盛(やどやのめしもり)」のほうが知られている。そのような号を付けたのは、日本橋小伝馬町で「糠屋(ぬかや)」という旅籠(はたご)屋を営んでいたことによる。48歳で死んだ蔦重に対し、雅望は78歳まで生きた。

 雅望が親友蔦重の葬儀に参列できなかったのは、「公事宿(くじやど)」(訴訟のために地方から江戸へ出てきた農民らが泊る宿)の贈収賄事件に連座した廉(かど)で罰せられ、「家業停止。江戸払い」の刑に処されていたからで、蔦屋家累代の墓のそばに蔦重の供養塔を建立した時期が蔦重の死から2年も後になったのも、雅望のそうした個人的事情が絡んでいた。

 当時は幕府の出版規制による“筆禍の嵐”が吹き荒れた時期で、雅望が追放される3ヵ月前の1791(寛政3)年3月には、法に触れる戯作を書いたとの理由で山東京伝が「手鎖五十日」の重刑、版元「耕書堂」の蔦重も「身上半減」の重刑を受けていた。蔦重が受けた心身の傷は大きく、「蔦重はもう終わり」とみる向きも多かったが、“超大型新人”写楽をデビューさせて不死鳥のように蘇った。

追悼文からわかる蔦重の事績

 ここで、雅望が江戸にいなかった裏事情にも軽く触れた追悼文(漢文)を現代語訳で紹介しよう。

 喜多川柯理(かり/からまる)。本姓は丸山。蔦屋重三郎と称した。父の名は重助(じゅうすけ)、母は広瀬氏の出である。寛延3(1750)年庚午(かのえうま)1月7日に江戸の吉原で生まれた。幼少時に喜多川氏の養子となる。人となりは士気にあふれ、英邁(えいまい)で、細かいことは気にせず、信(まこと)をもって人に接した。かつて吉原大門(おおもん)の外に一軒の書店を開業。のちに通油町(とおりあぶらちょう)に移した。そこへ父母を迎えて養ったが、父母は相次いで死去した。柯理は吉原の産業をさかんにし、商人に転じた陶朱(とうしゅ/范蠡〈はんれい〉とも/越王句践(えつおうこうせん)の功臣)のように富を増やした。その功思妙算ぶりは、他者の追随を許さず、ついに一大書店となったのである。

 丙辰(ひのえたつ)の年(寛政8〈1796〉年)に患っていた病が重くなり、1ヶ月後に危篤となった。翌年の寛政丁巳(ひのとみ)の夏、5月6日、「自分が死ぬのは午の刻(11~12時頃)だろう」と予告して家事を処理するなどし、妻にも別れを告げたが、その時刻になっても生きていたので、照れ笑いを浮かべて、「芝居は終わったはずだが、拍子木がまだ鳴らない」。ところが、そういった後、再び言葉を発しなくなり、夕刻に至って没したのである。享年48。山谷の正法精舎(正法寺)に葬られた。そのとき私は10里も離れたところで訃報を聞き、驚き動揺し、悲痛な思いに沈んだ。(偉大だった蔦重と違って)この私は、広大な天地のなかのちっぽけな一罪人にすぎないから、知己の恩情にすがって余命を過ごしたい。それが今の気持ちだ。ああ、人の命のなんと儚(はかな)いことか。そんな切なさを感じながら次の言葉を捧げる。

 人間常行 載在稗史

 (人間の常行〈じょうぎょう〉 載せて稗史〈はいし〉に在り)

 通邑大都 孰不知子

 (通邑〈つうゆう〉の大都〈たいと〉 孰〈いずれ〉か子〈し〉を知らざらん)

 末尾の2行は「人の日常は、小説風の歴史書などに記載される。江戸のような大都市で蔦重のことを知らない者がいるだろうか」といった意味である。

 

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