2025年12月5日(金)

Wedge REPORT

2025年5月31日

関東大震災と東京大空襲で倒壊した供養碑

 石碑に刻んだ文は「墓碑銘(ぼひめい)」という言い方がポピュラーだが、蔦重の顕彰碑は「喜多川柯理墓碣銘」となっている。碑の登頂部分が水平状なのが「墓碑」で、丸く円弧をえがいたものは「墓碣(ぼけつ)」という違いがある。碣は「いしぶみ」の意味だ。

 その墓碣銘は現在、正法寺の境内の蔦屋家累代の墓石の手前に建っているが、創建当時のものではない。1994(平成6)年に先代の住職が老朽化した寺院を9階建てのビルに建て替えたときに再建したもので、蔦重が1793(寛政5)年に没した母を追悼するために幕臣で一流文化人の大田南畝(なんぽ)に書いてもらった碑銘も併記されているが、もとは別々で、本堂の裏手の墓地に並んで建っていた。

御住職と墓碑。向かって右側が蔦重家の墓を復元したもの、左側が石川雅望が書いた墓誌碑(著者撮影)

 蔦屋家歴代の墓石も復元された。墓は3段で、上から順に墓石、蓮座、台石で構成され、台石の中央に「山形に蔦」の家紋、右に「通油町(とおりあぶらちょう)」、左に「蔦重」の文字が刻まれている。この形状は、『稗史家十伝』(著者・成立年代不詳)の「墓誌」のところに載っているスケッチをもとに復元したものだ。

 喜多川柯理墓碣銘のほうは、1906(明治39)年発行の吉川弘文館の雑誌『高潮』に載っていたイラストを参考にしたようだが、もとの書体とは違っている。そう断言できるのは、関東大震災で倒壊する以前の墓碣銘から採取した「蔦屋重三郎碑文」と題した拓本が「静嘉堂文庫美術館」に存在するからだ。

雑誌『高潮』に掲載された墓碑のスケッチ(大久保葩雪画、明治30年)

 これはごく限られた人しか知らない史料で、誰がいつ採取したものかは不明だが、拓本に使った紙の製造年代を調べれば、もとの墓碣銘がいつごろまで存在していたかを推定できるだろう。拓本の紙の余白には戦前の正法寺の住所(浅草区山谷町)が万年筆で書き込まれているが、それは拓本を取った時期ではなく、美術館が拓本を入手した時期だろう。

 拓本の文字は石工以外の者が書いた筆跡を拡大したように見える。これは石川雅望の筆跡ではないのか。とすれば、それを復元すべきだったが、先代住職はこの拓本の存在を知らなかったのか、知っていても大田南畝が書いた蔦重の母親の碑文の拓本は見つかっていないから、併記すると見た目がおかしくなると考えて同じ書体で統一したのだろうか。

 拓本では、前掲の切り離していない「人間常行 載在稗史」「通邑大都 孰不知子」の箇所を、復元墓碣銘では切り離して表示しているが、そうするほうが見やすいというメリットもある。


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