蔦重の死を記した「過去帳」の行方
蔦重の遺骨の行方についても触れておきたい。正法寺の1階はホテルのロビーのようになっており、そこを通って左に折れ、ガラスドアを開けて外に出たところに「喜多川柯理墓碣銘」がある。累代墓はその右後方、蔦重の遺骨が収納されている「萬霊塔」は左後方だ。「萬霊」という言葉から想像がつくように、不特定多数の遺骨が安置されている。
そこに眠る遺骨は、1923(大正12)年の関東大震災で墓石や墓碣銘が倒壊し火災で粉々になり、誰のものかわからなくなった何万もの骨片で、それを先々代の住職が少しずつ拾い集め、納骨堂を建てて安置したのである。
その後、太平洋戦争に入ると、1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲では、おびただしい数のB29が飛来して焼夷弾が投下された。首都は猛火に包まれ、「全焼家屋約26万7000戸、死者約8万4000人」(昭和37年警視庁史昭和前編)で寺も炎上し、コンクリートでできた納骨堂だけが焼け残った。
納骨堂の内部は狭く、毘沙門天の掛け軸の前に一畳半くらいの畳台がしつらえられ、先代の住職はそこに座って読経した。畳台の下に設けた深さ1メートル未満のスペースに納めた無数の骨片を現在の住職が初めて目にしたのは、寺院改築時だったという。骨片は、どれ1つとして白いものはなく、泥まみれで黒く、蔦重の遺骨がどれかなど見当もつかない。それらを袋に移し、新築した萬霊塔に納骨したのである。
最後に、蔦重をはじめ、妻や子らがいつ死んだかがわかる貴重な史料「過去帳」の行方についても触れておこう。先代の住職は、東京大空襲の日、「江戸三大毘沙門天」(神楽坂の善國寺、芝の正傳寺、浅草の正法寺)とされる寺宝の毘沙門天像(木製/背丈15センチ)と過去帳だけを持って逃げた。
隅田川にかかる言問橋(ことといばし)まで行ったところで、反対方向から逃げてきた人々と鉢合わせして身動きが取れなくなってしまった。その間にも火は迫ってくるので、川に飛び込んだ。だが、そこも陸と同じく死体や生きている人で埋めつくされた状態であり、いつの間にか過去帳を消失してしまったのだ。
――以上が、蔦重の墓碣銘・遺骨をめぐる知られざる秘話である。
