「モナ・リザ」という一枚の絵が与えた影響
実はこの門外不出の「モナ・リザ」の米国展覧会という文化大プロジェクトの布石は、前年にケネディ大統領夫妻が訪仏したときに仕込まれていた。60年代のアメリカが輝き、世界が羨望の眼差しを向けていた時代、いわゆる「60s(シックスティーズ=『アメリカの栄光の60年代』)」、若く美しい世界のリーダーJFケネディ夫妻の来仏をフランス国民は歓呼の声で迎えた。頑迷で前世紀の価値観の権化でもあったドゴール大統領も、ジャックリーヌ夫人の美貌と知性にすっかり魅了されてしまった。
その一方で、そのたくましい行動力にみなぎったアンドレ・マルローというヨーロッパの知性は、世界のファーストレディーを虜にしてしまった。この訪問を契機に門外不出のモナ・リザのアメリカへの持ち出しが決定された。
ジャックリーヌはマルローに「モナ・リザをアメリカで展示させてほしい」と願い出たのである。もちろんマルローはすぐさま、それに応じた。
ワシントンのナショナルギャラリーとニューヨークのメトロポリタン美術館で開催されたその展覧会は未曾有の成功であった。それぞれ27日間と2カ月弱の間に、67万4000人、107万7500人の入場者を数えた。
美術館にこれまで足を運んだことがない人々までせっせと「史上もっとも美しい女性の笑顔」を見に集まったのである。イタリア・フローレンスの女性モナ・リザはアメリカとは違うヨーロッパ女性の美しさの神話を、またひとつアメリカ国民に焼き付けたのである。
世界ナンバーワンの地位を謳歌していた60年代のアメリカがルーブル美術館所蔵の「フランス女性」の一枚の絵によってフランス文化外交に屈服してしまったのである。そしてその真意のひとつに両国間の平和があった。
米仏緊張緩和の触媒
そこには外交上の大きな仕掛けがあったとみることもできる。当時フランスは、アメリカとの間で防衛戦略面での摩擦を深めていた。
アメリカがイギリスとフランスに対してポラリスミサイルを拠出する代わりにその核弾頭を自前で製造するナッソー協定を提案していたが、イギリスは同意したものの、フランスは拒否したのである。またアメリカが西側の防衛上の役割分担を意図した多角的核防衛戦略構想にもフランスは乗らなかった。
核爆発実験に成功したフランスは、アメリカの世界戦略の駒としてフランスが扱われることに「ノン」と言ったのである。欧州経済共同体(EEC)への加盟を希望するイギリスを「トロイの木馬(アメリカの手先)」と痛罵し、断固として拒否し続けたのもまたドゴール大統領であった。
モナ・リザの渡米は、こうした米仏間の緊張関係の緩和の触媒として準備された。直前に勃発したキューバ危機では、フランスは西側で最初にアメリカを支持した。そしてドゴールはこの危機にもかかわらず、モナ・リザのアメリカ公開を取りやめようとはしなかった。
