「なぜ逃げるのか」ではなく
「なぜ逃げないのか」
路上に遺体が点々と放置されていた北部ブチャ。集団墓地から腐臭を発する亡骸が次々と掘り出された東部イジューム。巨大な集合住宅群が廃虚と化した北東部ハルキウ。「なぜ逃げるのか」という問いはもはや、意味を失っていた。
やがて私の疑問は、「なぜ逃げないのか」「なぜ戻るのか」へと変わっていった。安全な避難先から、ミサイルが降り注ぐ町や不発弾が散らばる村へ戻る人が相次いでいたのだ。
理由は親の介護、避難先での孤独、経済的限界、生活の再建など様々なだったが、命がけで残る、あるいは戻る、という覚悟の奥底には、本能的な何かがあるような気がしていた。
その一つを言語化してくれたのが、東部クラマトルスクの公園で出会った老人だった。激戦地からわずか30キロ・メートルに位置し、街中に着弾が相次いでいた。
元技術者イリー・ロキテャンスキー(72歳)は侵攻直後に息子家族と一緒に避難したものの、半年後に戻ってきていた。「自分の家だからです。結局、避難先ではよそ者ですから」。
そして彼は、鼻をくん、と鳴らして匂いを嗅ぐしぐさをみせた。
「家には匂いがあるんです。家族みんなの人生が宿っている。一歩足を踏み入れると、祖父や祖母、もちろんあなたの匂いもする。それが恋しくなるんだな。何げない小さなことが、一つの大きな絵をつくっている。それが自分の家なんです」
彼と同じように望郷の念を抱えながらも、帰郷はかなわず、家族に記憶を語り継ぐ人もいた。
ヨルダン北部ジェラシュの難民キャンプで出会ったパレスチナ難民トゥルファ・アヤシュ(80歳)は、現在のイスラエル南部ベエルシェバの砂漠で暮らす遊牧民だった。イスラエル建国に伴い約70万人が故郷を追われた「ナクバ(大破局)」の出来事を昨日のことのように話し出した。
「イスラエル兵は私たちのテントや畑を燃やし、見境なく発砲して住民も羊も殺しました」
一族はガザに逃げ込んだが、1967年の第三次中東戦争で再び追われてヨルダンへ。以来、一度もパレスチナの地を踏めずにいる。
「子どもたちには赤ちゃんの時からずっと故郷の話を聞かせてきました」
語り継いできたガザも、2023年に始まったイスラエル軍の攻撃で文字通り瓦礫となり、彼女の親族も殺された。「ニュースを見ていると夜も眠れません」。そして彼女は首を振った。
「ああ神よ、こんな人生はもう嫌です」
故郷を自らの意思で逃れた人たちが背負っていたのも、やはり後にした家だった。
ナイジェリア人の機械工アリ・モハメド(24歳)はサハラ砂漠を越え、チュニジアから密航船でイタリアを目指したが、洋上で警備艇に阻まれた。
「家計を支えてきた兄がイスラム過激派に殺されました。最年長になった私が稼がないといけないのですが、地元には仕事がないんです」
