密航の失敗は5度目だった。家に戻らないのかと尋ねると、13秒間も無言でうつむいた後、私の目をまっすぐ見て言った。
「またやります。怖いし、リスクがあるのも分かっていますが、ほかに選択肢がないんです」
密航船に乗るには多額の費用がかかる。家財を売ったり、親族から借金したりして旅費を捻出している人たちも多い。
家族のために
どんな困難でもやり遂げる
バングラデシュのイスラム神学校で学んでいたタリフル(32歳)もその一人だった。
バングラ人の間で密航は「ゲーム」と呼ばれていた。当局につかまるか、地中海に沈むか、欧州にたどり着くか──。命がけの賭けだったが、タリフルは負け続きだった。警備艇に見つかって3度失敗し、収容所にも入れられた。再挑戦のたびに密航手配業者に大金を請求され、すでに総額160万タカ(約220万円)を費やしていた。
なぜそこまでして欧州を目指すのか。そう尋ねると、口調が熱を帯びた。
「イタリアで稼いで大金を仕送りできれば、私も妻も3歳の一人娘も、そして両親も、みんなが幸せになれます。合法的に欧州に滞在できるようになったら、妻や娘を呼び寄せて一緒に暮らしたいんです。だから、どんな困難があってもやり遂げます」
密航者が肩寄せあう粗末な木造船やゴムボートが沈没する海難事故が相次ぎ、地中海では14年以降、少なくとも3万2000人が死亡・行方不明になっている。
こうした現実は、どこか遠い国の出来事に思えるかもしれない。だが、かつての日本人もまた、家族の生計を支えるために海を渡った。
明治期以降、貧しい農村部からハワイ、北米、南米に向かった人たちは、望郷の念を抱きながら異郷で生きた。戦前・戦中には、国策として満州や南樺太、朝鮮半島などへの移住が奨励された。敗戦とともに居住地を追われて本土に引き揚げる中で、飢えや寒さで命を落としたり、帰郷がかなわずに抑留されたり、親と生き別れて残留孤児となったりした人もいた。
第二次大戦後で最も戦火にまみれた世界はいま、かつての惨禍と地続きの場所にある。80年前を振り返り、平和への思いを新たにするこの夏、今なお戦火に追われている人々、あるいはかけがえのない家族を支えるために命がけの旅をする人たちの姿にも改めて思いを馳せたい。
