受験制度で遠ざかる理科の学び
まず、大きな問題として受験制度の弊害がある。中学時代の最大の目標は、高校受験に合格することであり、高校時代の目標は大学に合格することである。特に主要教科の学習は、その段階で通っている学校で良い成績を得ることよりも、上級の学校の入学試験に受かることが最大の目的になっている。
受かったあとの進路を考えて、情報収集などに余計な時間をかけるよりは、とにかく少ない時間を有効に使って、入試に受かることが最優先、そのような思考の傾向もある。とにかく、専門的な勉強は大学に入ってやればいいのだし、そもそも大学に入れなければ将来の進路はないのだから、入試の勉強以外は「やってはいけない」というような思い込み、これが生徒本人にも周囲にもある。
要するに、入試という関門を通ることが、中学や高校における至上命題であることで、その先への準備や、今学んでいることが「その先に繋がり、役立つ」という感覚を持てないのだろう。
入試制度に関しては、もっと深刻な問題がある。まず、高校1年生頃に行われるコース選択において、一般入試の私立文系を選択すると、共通テストを受けない場合は、以降は数学と理科に関する真剣な学習とは無縁の人生が待っている。
さすがに現代の経済学を学ぶには数学が必要だとして入試に数学を加える大学は増えてきたが、理科は依然として「文系」では必要とされていない。このような高校生を一定の比率で作ってしまう制度がまだ残っている
事務職や営業職でも物理学や化学は必要
さらに、いわゆる文系を選択する生徒の場合は、将来の就職としては事務職や営業職をイメージすることになる。日本では、別に間違ってはいない。だが、事務とか営業という業務の内容が、正確に伝わっているかというと、かなり怪しいと思われる。親世代から聞こえてくるとか、テレビや漫画などの影響とも思うが、昭和以来の日本の古い労働感が、若者の意識にも浸透しているとしたら問題だ。
例えば事務と言えば、定型的なルールに即して退屈な作業を反復するとか、営業というのは「白を黒と言いくるめる」ような話術をつかったり、頭を下げてモノを売る苦しい仕事といったイメージだ。また、仕事で必要なことは企業がその場で教えてくれるし、大学で学んだことは役に立たないといった思い込みもある。
そこには、例えば工作用機械を販売するには、機械工学やそのベースとなる物理学や化学の基本知識が必要だという発想はない。また事務の仕事の中には環境対策のためのデータ収集やその解析といった業務があり、当然そうした仕事を遂行するには最低限の物理や化学の理論の理解が必要である。
