「取引力」対「操作力」
ドナルド・トランプ米大統領(以下、初出以外敬称および官職名等略)とウラジーミル・プーチン露大統領が8月15日(以下、現地時間)、米アラスカ州アンカレッジで会談を行った。この会談は、事実上、ウクライナ戦争を巡るトランプとプーチンの対面による直接交渉となった。
米国のオールドメディアないしレガシーメディアは、トランプが「停戦合意」から「和平合意」に立場を変えた点を指摘し、交渉の勝者をプーチンとみている。では、プーチンはどのような交渉能力で勝者になったのか。以下では、今回の米ロ首脳会談を、トランプの「取引力」とプーチンの「操作力」の観点からみていこう。
「舞台の設定」と「芝居じみた言動」
米ABCニュースやCBSニュースによれば、トランプはプーチンよりも約30分早くアラスカに到着し、大統領専用機(エアフォースワン)の中で待機していたと言う。米ロ首脳会談の前、会談の結果に対する期待値を下げたトランプだが、彼にとってのこの会談は、ウクライナ戦争の仲介役を世界に向けてアピールする絶好の機会であったはずだ。
トランプは、より良い取引を行うには、まず「舞台の設定」と「芝居じみた言動」が不可欠であると考えているようだ。この2つは、彼の取引をまとめる条件に含まれているとみてよい。それが、プーチンを出迎える際に顕著に見られた。
例えば、トランプは、拍手をしながら赤い絨毯でプーチンを出迎え、右手で握手をすると、ほぼ同時に左手で彼の腕を軽く叩いてみせ、親密さを演出した。また、握手をした際、プーチンの手を上からポンポンと軽く叩き、親近感を抱いているというメッセージを送った場面もあった。
さらに、上空を米空軍の戦略爆撃機B2と戦闘機が飛び、地上にはステレス戦闘機F22が展示されている中を、トランプは笑顔で歩き、「アラスカ 2025」と印刷された舞台にプーチンと一緒に上がった。国際刑事裁判所(ICC)から逮捕状が出ている戦争犯罪者と有罪判決を受けた米大統領が同じ舞台に立った瞬間であった。
舞台を降りると、トランプは早速、プーチンを自身の大統領専用車「ビースト」に招くという予想外の言動に出た。ビーストに乗り込んだプーチンは、笑顔を浮かべていた。
取引をまとめる条件である舞台の設定と芝居じみた言動は大成功を収めた。
「取引力」よりも「操作力」
操作は、相手に影響を与え、相手をコントロールする能力でありスキルでもある。すでに操作の素質がある人もいるが、操作は学習することができるスキルである。
一方、取引には交渉や説得の能力およびスキルが求められる。ただ、取引力と操作力は、効果的なコミュニケーションの能力とスキルを必要とする点で共通している。
一言でまとめれば、今回の米ロ首脳会談では、トランプの取引力よりも元KGBのプーチンの操作力が上回ったと言える。
例えば、共同記者会見で、プーチンは、トランプが自分が大統領であれば、戦争は起きなかったと繰り返し述べてきた点を取り挙げて、「確かにその通りだと、私は確信しています」と同意し、トランプの過大な自尊心を巧みに利用した。米ロ首脳会談後、保守系のFOXニュースの番組に登場したトランプは、プーチンのこの発言について「とてもうれしかった」と述べた。プーチンは完全にトランプの心を掌握した。
また、プーチンは、郵便投票では公正な選挙は行われないと語り、2020年米大統領選挙において、勝利したのはトランプであるという認識を示したことを、トランプは同番組で明かした。これもトランプの自尊心につけ入るというプーチンの巧妙な操作である。
8月18日、ホワイトハウスで行われたトランプとウクライナのボロディミル・ゼレンスキー大統領との会談で、極右の新興メディア「リアル・アメリカズ・ボイス」のブライアン・グレン記者が、トランプに郵便投票について質問をすると、トランプはウクライナの「安全の保障」や「領土割譲」の問題を脇に置いて、郵便投票の廃止に時間を割いて強く訴えた。
トランプは、20年米大統領選挙におけるジョー・バイデン元大統領に対して敗北した事実を認めなかった。プーチンは、戦略的に同選挙において不正があったという認識をトランプと共有することにより、「私はあなたの味方です」というメッセージを発信し、ここでもトランプを自分に引き付けることに成功したのだ。
トランプは、2020年米大統領選挙は「盗まれた」と主張しており、翌年1月6日の米連邦議会議事堂襲撃事件の正当性を、プーチンが米ロ首脳会談という公の場で認めたからだ。トランプは、プーチンをウクライナ戦争を始めた「侵略者」や民主主義の「敵」ではなく、自分の「支持者」としてみたのだろう。
交渉におけるトランプの弱み―ノーベル平和賞受賞の願望
さらに、プーチンには、ノーベル平和賞受賞の願望が強く、受賞に前のめりになっているトランプの心理状態を利用しない理由はない。トランプが7月、ノルウェーのイェンス・ストルテンベルグ財務大臣にノーベル平和賞受賞を望むと、電話をかけていたことが報道された。
トランプは、アゼルバイジャン共和国とアルメニア共和国の紛争や、タイとカンボジアの国境における武力衝突など、6つの戦争の仲介を果たし、「解決した」と強調している。また、ウクライナ戦争に関しても、人命の重要性について繰り返し語っている。
確かに、人命は最も尊重されるものだが、トランプの上記の発言には、ノーベル平和賞受賞の発表日である10月10日の期限を強く意識していることが透けて見える。それに対して、プーチンには同賞受賞の期限はない。もともとその可能性自体はないからである。
プーチンは、いつ破られるのか分からない(つまり自分が破る)停戦合意よりも、ノーベル平和賞受賞を確実にする包括的な和平合意の方が、メリットがあるとトランプに示唆したのかもしれない。仮にそうであるならば、その意図は、ロシアの「時間稼ぎ」や「新たな制裁の回避」および同国から原油を購入している中国とインドに対する「2次制裁の回避」にあるのだが、ノーベル平和賞受賞の願望が強いトランプが、プーチンの心理操作による罠に嵌った可能性は排除できない。
プーチンがトランプのために、和平合意に向けて取引をして、ノーベル平和賞受賞を助けてくれると信じ込んでしまった節があるのだ。実際、トランプは、エマニュエル・マクロン仏大統領に、プーチンが自分のために取引をすると語っている。
米ロ首脳会談で停戦が実現しなかった場合、「非常に深刻な結果になる」と明言していたのにもかかわらず、会談後はロシアに対して「当面は、制裁は必要ない」と発言して立場を変えた。そのことによって、トランプは、ロシアにウクライナへの攻撃継続の時間を与えてしまった。マルコ・ルビオ国務長官兼大統領補佐官(国家安全保障問題担当)まで、米ABCニュースのインタビューなどで、ロシアに対する「新たな制裁は合意を危うくする」と語るようになり、さらなる圧力強化に反対の立場をとった。
