2025年12月5日(金)

世界潮流を読む 岡崎研究所論評集

2025年10月1日

 MIT核セキュリティ政策センターのVipin Narang所長らが、Foreign Affairs誌(ウェブ版)に掲載された論説‘The North Korean Way of Proliferation’において、米国による核施設攻撃はイランの核開発計画を挫折させたが、他方で核拡散を企てる国々の核兵器開発への歩みを加速させたとしたうえで、核開発を目指す国は今後、北朝鮮型あるいはシリア型で核保有国になろうとするだろう、と論じている。要旨は次の通り。

(paseven/gettyimages・ロイター/アフロ・Office of the Iranian Supreme Leader/AP/アフロ)

 イスラエル・米国によるイランとの12日間の戦争は、イランが1980年代から追求し、しばしば成功を収めてきた、核に関する閾値戦略の終焉を意味する。

 1970年代初頭以降、イランは軍事利用の可能性を考慮して、核計画拡大のために必要な野心と専門知識を有していた。70年に核拡散防止条約(NPT)に加盟したが、専門知識の蓄積を続け、89年からはいわゆるAMAD計画を策定し、核兵器に必要な理論的・工学的作業のロードマップを確立した。

 しかし、イランは技術的な理由ではなく政治的な理由により、核兵器化の閾値を超えることはなかった。彼らは、NPT加盟国として閾値を超えることはイランの安全保障と戦略的利益にならないと考えたのだ。JCPOA(イラン核合意)の締結は、彼らの考えの正しさを証明したかに見えた。

 しかし2018年、米国がJCPOAから離脱したのに対し、イランは核爆弾に必要な純度に非常に近いものを含む大量の濃縮ウランを備蓄し始めた。バイデン政権時代、イランは核兵器製造に必要なウラン濃縮能力を数日で得られるところまで迫っていたと推定されている。

 そしてついに本年6月、トランプ政権第二期の下で米国はイランの核施設を攻撃した。もし03年にイランが核のルビコン川を渡っていたならば、米国はこのような直接対決を避けたかも知れない。

 北朝鮮の事例は対照的だ。90年代初頭、北朝鮮は国際原子力機関(IAEA)への協力を拒否し、危機を引き起こした。米国は93年、北朝鮮の寧辺原子炉への攻撃を真剣に検討したが、クリントン政権は攻撃が韓国への報復とより広範な戦争につながることを恐れてこの計画を断念し、外交的解決を模索、94年の合意枠組みが生まれた。


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