2024年11月24日(日)

万葉から吹く風

2009年6月11日

 日本詩歌の歴史に屹立(きつりつ)する大詩人、柿本人麻呂の名歌に、次のような恋の短歌がある。

 み熊野(くまの)の浦の浜木綿(はまゆふ)百重(ももへ)なす

 心は思へどただに逢はぬかも

 (巻四─四九六)

photo:井上博道

 一首は、み熊野の浜木綿のように幾重にも心に思っていながらも、直(じか)には逢わずにいる、ぐらいの意。「熊野の浦」は現在の和歌山・三重両県にわたる海岸である。また「浜木綿」は、ハマオモトの別称もあり、暖地の海岸の砂地に群生する常緑の多年草。たくさんの葉が重なって偽茎をつくり幅広の葉が四方にのびて、夏には白い六弁の花が十数箇(こ)傘型に集まって咲く。その葉も茎も花も、さらに群生のさまも「百重」の様相を呈するところから、この歌では第三句「百重なす」までが序詞となって、恋の思いが重苦しく出来(しゅったい)するという、歌の本旨に連なっていく。

 とはいえ、この表現の勘どころは、単に序詞の比喩の機能にだけとどまってはいない。浜木綿の群生する熊野の海浜風景が広々と開かれ、しかもその風景の焦点が浜木綿の百重なす様相にしぼられている。その広大な視角と微細な映像によって、恋の切ない心情に鮮明なかたちが与えられた。外界の自然現象が自らの心内に意識的にひきよせられ、物象の言葉と心情の言葉が対応させられることによって、詩的なイメージが確保されているのだ。

 ちなみに、結句「ただに逢はぬかも」は『万葉集』に頻出する歌句であり、恋の重苦しさをいう下の句全体が類同的である。人は自分の気持ちだけを直接表そうとすれば、誰もが口に出しそうなほど、ありきたりの言葉になりがちになるのだろう。しかしここでは、それじたい心情とは無関係な熊野海浜の、目に鮮かな浜木綿の光景を描く言葉を対応させることによって、言葉が詩的イメージをつくり出しているということである。

 このように、枕詞や序詞などをも含めて、外界の自然現象に関する叙述を、他方の内的心情にかかわる叙述に対応させることによって、豊かな表現性を確保することになるのだが、この方法はひとり人麻呂に限ったことではなかった。むしろ『万葉集』全体にわたる当時の和歌表現の基盤だったとみられる。これは、古代和歌のすぐれた表現の知恵である。とりわけ人麻呂は、自然の様相に即して人間存在の深いありようを歌い上げた偉大な詩人であった。

◆「ひととき」2009年6月号より

 


 

 

 

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