知り続けるということ
東日本大震災は、国家が不可欠であることを示した一方で、中間組織と個人の自律的な力をいかにして維持し、回復するかという課題も突きつけた。「国が救う」社会は安心を与えるが同時に、社会全体の回復力を静かに弱める側面を持つ。非常時に拡大した国家の役割をいかに平時の規律へと戻し、地域や家庭、民間組織が本来の力を取り戻すか。
東日本大震災から15年を迎えるにあたり、私たちが向き合うべきは、震災の被害や復興状況だけではない。震災が日本の財政構造と国家観にどのような痕跡を残し、「大きな政府」をどれほど当然とする社会へ変化したのか、という長い時間軸での問いである。復興税に象徴されるように、非常時の財源が防災・国土強靱化、さらには防衛関連まで包含し、平時の政策財源へ接続されていった事実は、国家の前面化が恒常化しやすいことを端的に示している。
しかし本質は、危機のたびに国民が国家の役割拡大を受け入れ、行政もその前提で制度を積み重ねるという繰り返しにある。震災は国家の必要性を疑いないものにした。同時に、「国が最終的に何とかしてくれる」という期待も強めた。
中間組織が相対的に縮小し、国の支援を待つ姿勢が広がれば、社会全体の自律性と回復力は弱まる。必要なのは、「国家がどこまで救うべきか」という是々非々だけではなく、非常時に拡大した国家の役割を平時へ戻すための仕組みである。
危機を理由に拡大した財源や制度は、政治・行政にとって「使い勝手のよい枠組み」になりやすい。だからこそ、非常時の制度には明確な出口、すなわち縮小の基準と期限を伴わせることが不可欠だ。
震災を「知り続ける」とは、当時の悲劇や復興の記憶を保存するだけではない。非常時の経験が社会をどう変え、国家観・財政観を定着させたのか、その構造を継続的に点検することである。
緊急時に国が前面に立つのは当然の責務である。しかし、国に頼りすぎる社会は、災害という長期的課題に対して強くはなれない。国家と中間組織、個人の自律性のバランスを取り戻すことこそ、震災後の日本社会が本当に向き合うべき課題である。
非常時と平時を往復しながら膨らんだ国家の姿を一度問い直す。その視線こそが、次の危機を乗り越える力を育てる。
