2026年3月21日(土)

Wedge REPORT

2026年3月21日

 砂漠を進むキャラバンは、国家よりも長い時間を生きてきた。王朝が興り、滅び、国境が引き直されても、商人たちは道を失わなかった。シルクロードとは、政治の物語ではなく、“価値を運び続けた人々の営み”そのものだった。

(Mervana/gettyimages)

 日本とイラン(かつてのペルシャ)の関係は、この長い文明の流れの中に静かに位置している。地理的には遠く離れながら、両国は1000年以上にわたり、国家の思惑を超えて文化と技術を交換してきた。

 奈良の正倉院には、ササン朝ペルシャの白瑠璃碗や、ペルシャ風の意匠を持つ工芸品が今も残る。遣唐使とともに来日したペルシャ人・李密翳の記録は、日本が早くから“外の世界”とつながっていた証拠である。

 祇園祭の山鉾を飾る豪華な懸装品の中には、南蛮貿易を通じて伝わったペルシャ絨毯が今も使われている。国家が揺らいでも、文化と商いは国境を越えて流れ続けた。

 この“商人国家”の記憶は、現代の私たちが忘れかけている視点かもしれない。戦後日本もまた、国家が十分に機能しない時代を経験した。

 1946年2月の預金封鎖から80年の時が流れた。当時資産は一夜にして凍結され、人々は「明日をどう生きるか」という不確実性のただ中に置かれた。

 国家が揺らぐとき、生活を支えたのは企業だった。企業は雇用を守り、教育を担い、地域を包摂し、国家の代わりに“安定”を提供した。こうして日本は、世界でも稀に見る企業国家(Corporate Nation) を形成していく。

 長期雇用、合意形成型の文化、系列グループ、メインバンク。これらは文化ではなく、戦後の不確実性に対する“合理的な適応”だった。しかし、この内部完結型のOSには一つだけ大きな弱点があった。

 リセットができない。

 外部環境が変わっても、内部で完結する仕組みは変わりにくい。グローバル化、デジタル化、資本市場の透明化。世界が大きく動く中で、日本企業は内部の論理を守り続け、オープンイノベーションのコンセプトように一部のみ導入しようともがくだけで外部との接続が遅れていった。

 そんな中で、日本とイランの関係は、戦後の日本が“外へ開く力”を取り戻す象徴的な出来事を残している。

 1953年、英国の石油禁輸措置に苦しむイランを救うため、出光興産のタンカー「日章丸」が国際紛争の危険を冒してアバダン港へ向かった。

出光興産の創業者である出光佐三は、英国の正当性のなさに強く反発し、「商人は困っている相手を助けるものだ」と語ったという。出光を提訴され、国際問題に発展した。

 しかしイランの人々は、「日本は勇気ある友人だ」と語り、この出来事は今も時を越えて語り継がれている。国家の思惑を超えて、企業が国境を越え、人を助け、信頼を築いた。

 これはまさに、シルクロードの商人たちが行ってきた“国境を越える商いの倫理”そのものだった。そして国内では、石油供給の安定化に大きく貢献した。

 国家が揺らぐとき、企業が社会を支える。この構造は、戦後日本の企業OSの核心そのものである。しかし現代、日本とイランの交流はかつてほど濃くはない。


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