2026年7月9日(木)

解剖:「大きな政府」を好む日本

2026年7月9日

「責任ある積極財政元年」の登場

 そして半世紀余りを経た現在、似た構図が別の領域で現れようとしている。高市早苗政権の「責任ある積極財政元年」は、企業の投資不安を国家が引き受けることで、産業政策国家の拡張を正当化する契機となりかねない。

 戦略分野を政府が選び、投資工程を描き、財政で後押しする。そこでは、企業が市場でリスクを取り、信用を築き、失敗から学ぶという市場経済の基本的な営みが、政府の政策判断に置き換えられていく危険がある。

 もちろん、安全保障や基礎研究のように、市場だけでは十分な投資が行われにくい分野が存在することは否定できない。国家が一定の役割を担うべき領域はある。問題は、その例外を一般原則へと拡張し、政府が恒常的な投資主体となっていくことである。市場の失敗を補うはずの国家介入が、いつの間にか市場の判断そのものを代替するようになれば、企業はリスクを取る主体ではなく、政府の政策に乗る主体へと変質していく。

 福祉元年が市民の自立を弱める側面を持っていたのだとすれば、責任ある積極財政元年は企業の自立まで弱めるのか。これは単なる財政規律の問題ではない。市民や企業が自らリスクを引き受け、相互の信頼の中で社会を支える力を、国家が吸い上げていく問題である。

 成長戦略の名の下に進むものが、真に企業を強くする政策なのか、それとも保護要求型の家父長的国家介入主義への入口なのか。いま問われているのは、その一点である。

国家が代替する対象の変化

 企業とは、本来、不確実性を引き受ける主体である。どの技術に賭けるのか、どの市場に参入するのか、どの事業から撤退するのか――。失敗のリスクを負いながら、資本と人材を配分するのが企業の役割である。市場経済の強みは、この分散的な試行錯誤にある。

 企業は単なる利潤追求主体ではない。企業は市場の中で信用を築き、約束を守り、他者との相互依存の中で公共的な価値を生み出す市民的主体である。市場とは、政府から自由な個人や企業が勝手に利益を追う場所ではなく、信頼と責任によって成り立つ社会的空間である。だからこそ、企業がリスクを負い、失敗から学び、信用を積み上げる過程そのものに、市民経済の意味がある。

 ところが、政府が戦略分野を選び、「官民投資ロードマップ」と呼ばれる工程表を描き、通常歳出とは別に「『強く豊かな日本』投資枠」を設け、予算要求の上限を外し、複数年度で支援するとなれば、企業の投資判断は市場ではなく政府の政策メニューに引き寄せられる。民間企業はリスクを取る主体から、政府の選んだ重点分野に適応する主体へと変わる。これは、企業を強くする政策であるように見えて、実は企業からアニマル・スピリッツを奪う政策になり得る。

「責任ある」の中身

 もちろん、政府は「責任ある」と強調する。骨太方針2026では、従来のプライマリーバランス黒字化目標を前面に置くのではなく、国と地方の債務残高対国内総生産(GDP)比の安定的低下を中核目標に据える方向が示された。PBは確認指標として残すものの、成長投資や危機管理投資の必要に応じて、より柔軟な財政運営を行うという考えである。

 だが、この変更は重大である。PB黒字化目標には問題もあったが、少なくとも歳出と歳入の関係を国民に見える形で示す役割はあった。

 これに対し、債務残高対GDP比は、分母である名目GDPが膨らめば改善して見える。成長が実現すればよいが、成長率の見通しが甘ければ、財政拡張は容易に正当化される。成長頼みの財政運営は、財政規律を維持しているように見せながら、実際には財政規律を緩める危険を持つ。


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