さらに問題なのは、「投資」という言葉の万能化である。成長投資、危機管理投資、人材投資、教育投資、地域投資。聞こえはよい。だが、政府支出は「投資」と名づければ自動的に将来の成長を生むわけではない。
民間投資は失敗すれば企業が損失を負う。政府投資は失敗しても、最終的な負担は納税者と将来世代に回る。この非対称性こそが、積極財政をめぐる最大の問題である。
福祉元年が残した教訓
73年の福祉元年も、当初は国民生活を豊かにする政策として歓迎された。だが、福祉は一度拡充されれば縮小が難しい。給付は権利化し、負担は先送りされる。
政治は受益者を前にして撤退できなくなる。結果として、社会保障は日本財政の最大の支出項目となり、現役世代と将来世代に重くのしかかっている。
同じことが産業政策でも起こり得る。いったん政府が重点分野を選び、投資枠を設け、補助金や基金で支援を始めれば、そこには受益企業、関係団体、関係自治体、所管省庁が生まれる。
政策は既得権益化し、撤退が難しくなる。失敗した投資ほど、失敗を認めないために追加支援を求める。こうして「成長投資」は、いつの間にか「産業版社会保障」へと変質する危険がある。
政府が担うべき本来の役割
高市政権の骨太方針が掲げる補正予算依存からの脱却や複数年度予算には、たしかに合理性がある。単年度主義の弊害を是正し、民間や自治体に予見可能性を与えることは重要である。また、公教育の再生、AI活用、人材育成改革など、将来世代に関わる政策課題も盛り込まれている。
しかし、予見可能性とは、政府支援が長く続く安心感であってはならない。本来必要なのは、企業が政府に頼らず長期投資できる制度環境である。
規制改革、税制の安定、労働移動の円滑化、資本市場の機能強化、社会保障負担の抑制、失敗した企業が退出できる仕組み。こうした市場の基盤整備こそ、政府が担うべき役割である。安全保障や基礎研究などの例外的領域における国家の役割を認めることと、政府が重点分野や支援対象を選び続けることは、まったく別の問題である。
問うべきは「責任」の所在
「責任ある積極財政元年」という言葉には、強い政治的魅力がある。財政を使うが、無責任ではない。成長を目指すが、バラマキではない。投資をするが、将来世代にも責任を持つ。そう聞こえる。だが、政治の言葉はしばしば、制度の現実を覆い隠す。
問うべきは、「積極」か「緊縮」かではない。「責任」の所在である。投資に失敗した時、誰が責任を取るのか。成長率が想定を下回った時、誰が歳出を削るのか。重点分野に選ばれなかった企業や地域は、どのように競争するのか。政府支援に依存した企業は、いつ自立するのか。債務残高対GDP比が改善しなかった時、どの税、どの給付、どの補助金を見直すのか。
これらに答えないまま始まる積極財政は、「責任ある」ではなく、「責任を先送りする」積極財政である。
