改革開放ですれ違う心
毛沢東時代の、階級闘争で「反動派を叩き、分裂主義者を叩く嵐を巻き起こすことで、中華民族の団結と共産主義社会への移行を革命的に造り出そうとする」やり方は、経済的にも社会的にも大失敗し、中国を極貧の淵に叩き込んだ。
70年代末以後からの改革開放とは、外国や香港・台湾の助けをも借りながら生産力を回復・向上させることで、その原動力としての中共と中華文明に対する信念・信頼を取り戻そうとする試みであったと言える。とりわけ89年の中国民主化運動、ベルリンの壁崩壊、91年のソ連崩壊、ユーゴスラビア紛争といった社会主義圏の動揺と、西側自由主義思想・大衆文化の浸透は、中共に激しい危機感を抱かせた。90年代後半以後の急激な経済発展と同時並行で徹底された愛国主義教育は、「中共が導く中華民族の偉大な復興」という言説を防衛するための思想闘争であった。
ところが、その中国の経済発展と少数民族政策は、中共の想定外の結果を生んだ。
改革開放初期の中共は、少数民族の生産力を回復し発展させるため、民族学校における独自言語による教育や各民族の文化を振興する策をとったが、それは転じて各少数民族のアイデンティティ強化につながった。しかも経済発展で少数民族の間でも生活の余裕が生じ、文化的に連続する周辺諸国との往来が増したことで、そのような傾向が加速したことは否めない。
一方、漢族は、独りっ子政策と大学受験(高考)など、さまざまな場面で少数民族への優遇に不満を持ち、「今や少数民族こそ現代中国社会の受益者であるにもかかわらず、中華文明・中華民族への求心性ではなく独自性へと向かっている」と見なして苛立った。とりわけ、01年の米国同時多発テロ以後、イスラム的表象を保つムスリム少数民族に対する嫌悪感が強まっていったことは否定できない。
このような流れの中で、08年にはチベット独立運動が起こり、09年には新疆のウルムチで大規模な衝突が起きた。
これに対し中共は、経済発展の持続で富強を目指すためにも、社会の安定を断固として保つと称し、少数民族の尊厳をかけた運動を厳しく弾圧した。一方、2000年代に本格化した「西部大開発」をいっそう推進し、漢族と少数民族の間の社会経済的な結びつきをレベルアップすれば、自ずと「中華民族」意識の共有が進むはずだという立場を維持した。
12年に発足した習近平政権は翌年「一帯一路」政策を提示し、少数民族地域こそ欧州やアフリカへと至る中国の経済発展の最前線と位置づけることで、いっそう少数民族地域の脱貧困と全国経済・グローバル経済との連結を進めようとした。
怒りの習近平時代
ところが習近平政権が発足してしばらく経った14年の春、ウルムチ駅で爆破事件が起こり、ついに習近平政権は少数民族のあらゆる離反的な動きを「三毒(分裂主義・恐怖主義・宗教極端主義)」と定義の上、「厳打=徹底的に叩く」という方針に転じた。
こうして出現したのが、「中華民族共同体意識の鋳牢(ちゅうろう)」なる政策である。あたかも強い熱と圧力を加えて鋳物を固めるかのように、今こそ中共と中国の圧倒的な社会管理能力を剣のように振りかざし、少数民族の精神を根本から叩き直すというものである。
そこで実際、チベットなどでは未成年に対して華語による寄宿舎教育が徹底され、児童生徒をチベット語の生活環境から切り離すという強権が振るわれている。また新疆では17年以後、人々の内面が「三毒」にあたるかをAIで判定し、「国家安全」に差し障る刑法犯扱いまたは強制収容によって社会から排除・隔離するという政策が横行した。そして「宗教中国化」と称し、あらゆる宗教は「中華民族共同体意識を涵養し、社会の安定を守る」ような教義へと書き換えさせられている。
