ガウディの声を聞く
教師を辞めた外尾が最初に向かったのはフランス。しかし、完全に出来上がった石造りの町には、そこで石を彫る自分が想像できない。ドイツに向かうための寒い駅舎で、ふと暖かい太陽の光を浴びたくなって南に行く列車に飛び乗った。それがバルセロナ行き。バルセロナ五輪開催よりはるか前のこの地は、スペイン内戦の傷跡が残る田舎町。夜遅く真っ暗な駅前に立った外尾は、左側から匂ってくるいい匂いに誘われて通りを左に曲がった。バルの建ち並ぶ一画があって、イワシとトマトとワインに出会った。人のたむろする雑然とした店に惹かれて、そこにしばらく滞在することに決めたという。外尾をバルセロナに留めたのは、安くておいしい食べ物とワインと人の温かさだったわけだ。もし右に曲がっていたら? 「真っ暗な公園だけだったから、きっと今の私はなかったでしょうね」と外尾は笑った。
翌日、気に入ったその町を探訪して、砂煙を上げる石の教会の工事現場に行き当たり、大きな石がうず高く積み上げられているのを発見した。
「何だろうこれはって思いました。こんなにたくさん石があるし、建築中だというし、一つぐらい彫らせてもらえないだろうかと頼み込んだんです」
そこがサグラダ・ファミリアだった。観光客などいない時代、個人の寄付によって賄う贖罪教会の財政は厳しい上に、馴染みのない日本人の青年を雇う余裕もない。返事は待てども届かず、いよいよ手持ちのお金が底をついたころ、やっと試験をするという通知。外尾の作ったものを見て、ガウディも曲線が好きだったと採用してくれたのが、ガウディの直弟子だった当時の主任建築家、プーチ・ボアダ。ここから外尾とサグラダ・ファミリアの36年の第一歩が始まったのである。
石工たちからは「おい、ハポネス(日本人)」としか呼ばれない日々。スペイン人以上の仕事をしてみせなければ、外国人の居場所はない。「ソトオ」と名前で呼ばれるようになったのは任された仕事を成し遂げた時からだという。そんな外尾に、高齢のプーチは、ガウディが唯一完成させていたものの、内戦で破壊されたまま50年も封印されていたロザリオの間の修復を任せた。
内戦の時、ガウディのオリジナル図面や模型や資料や財源をすべてロザリオの間に隠して入口を煉瓦で隠したのだが、それでも破壊されほとんどが消失している。修復は新しく作るよりも難しいが、そこにはガウディの深いメッセージが残されているはず。それを読み取ってほしいという願いを、プーチは外国人である外尾に託したのである。