1996年ドラフト2位でヤクルトスワローズに入団し、1年目から2軍で10本塁打を放つなど、いきなり頭角を現した。3年目には1軍で83試合に出場し、11本塁打を放った。
2004年、球団記録に並ぶ44本塁打を放ち、その年の日米野球では日本代表打線が低調に終わる中、4割4分という高打率を記録。8試合で7個の盗塁を決め、メジャーリーガー相手に実力をいかんなく発揮した。
06年、第1回WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)に招集され、世界一に貢献。レギュラーシーズンでは、3年連続3割30本塁打を記録。岩村のメジャーリーグ挑戦を疑う者はもう誰もいなかった。ポスティングシステムを行使し、07年にタンパベイ・デビルレイズに移籍した。
絶頂期に訪れた悲劇の瞬間
移籍1年目に123試合に出場し主力選手として定着すると、2年目にはシーズン172安打を放って球団史上初のワールドシリーズ出場に大きく貢献。岩村は、アメリカでも変わらぬ輝きを放った。
「日本人内野手はアメリカで通用しないと言われるけど、決してそんなことはない。野球はどういうスポーツかを考えてほしい。松井稼頭央さんも井口資仁さんも、ワールドシリーズのグラウンドに立っているんだから」
メジャー3年目を迎えた09年。第2回WBCの日本代表に2大会連続で選ばれると、チームトップの得点を記録し、2連覇に貢献。その後のレギュラーシーズンでも、前年を上回る活躍をしていた矢先、悲劇が襲った。
「結果的に、あれが転機になってしまったね。足首の靭帯(じんたい)が3本切れて、全治1年と言われた」
2塁ベース上で、ランナーの激しいスライディングを受け大けがを負ってしまう。それでも、岩村は3カ月でグラウンドに戻ってきた。奇跡的に繊維質レベルで残っていた靭帯を焼き、つなぎ合わせ、周りの筋肉でなんとかカバーし、器具をつけながらトレーニングをした。
「この年は打てないと思っていたけど、なんとか1本打ててよかった」
これが岩村の真骨頂。ただ復帰するだけにとどまらず、復活をホームランで証明して見せた。
それでも、けがの影響はプレーに表れた。トレードで移籍したピッツバーグ・パイレーツでは本来のプレーを取り戻すことができず、10年6月にマイナーリーグに降格、シーズンが終わる前の9月7日にFA(フリーエージェント)となった。約1週間後の9月13日、オークランド・アスレチックスと契約し、10試合に出場するものの、10月4日に再びFAとなった。
「そのとき、最初に声をかけてくれたのが東北楽天ゴールデンイーグルスだった。俺は常にはじめに声をかけてくれたところに行くことにしている」
5年振りの日本球界復帰も、本来の調子を取り戻すことはできず、2年目の12年10月、戦力外通告を受ける。
「戦力外通告という言葉は好きではない。言ってみれば、契約満了。次の契約をするだけだよ」