猪突猛進型のリーダーは多い。周囲を見回さない、そして後ろを振り返らない。だが、そうしたリーダーが思わず道を誤れば、部署全体の道まで誤りかねない。
『葉隠』は、常に「岡目八目」の視点を意識し、話し合いを絶やさないことが、組織にとっての正義になり得ると説く。
勝負事でも、自分がしていると思わぬ失策をし出かすことがある。夢中になっているから、自分の姿が見えないのである。そういう時には、ひと呼吸を入れてみればよい。思わぬところから良い知恵が生まれてくるものである。
不義を嫌うて義を立つる事成り難きものなり。然れども、義を立つるを至極と思ひ、一向に義を立つる所に却って誤多きものなり。義より上に道はあるなり。これを見つくる事成り難し。高上の賢知なり。これより見る時は、義などは細きものなり。我が身に覚えたる時ならでは、知れざるものなり。但し我こそ見つくべき事成らずとも、この道に到り様はあるなり。人に談合なり。
たとへ道に居たらぬ人にても、脇から人の上は見ゆるものなり。碁に脇目八目と言ふが如し。念々知非と言ふも、談合に極るなり。話を聞き覚え、書物を見覚ゆるも、我が分別を捨て、古人の分別に付く為なり。
不義を嫌って正義を通すということは、難しいことである。しかしながら、正義を通すことを最高のことと思い、ただそれだけを考えているから、かえって過ちが多いのである。正義より上に道というものがある。これをみつけることはなかなか難しいが、最高の知恵である。この境地からみれば、正義などというものは小さなものである。これは自分自身で会得したのでなければわからない。ただ、自分自身で悟らなくても、この道にいたる方法はある。それは、人と話し合うことである。
たとえ道を会得した人でなくても、他人のことはよく見えるものである。碁に『岡目八目』というのが、そのことである。熟慮して己が非を知るというけれど他人と話し合うのが最良である。話を聞いて覚え、書物を読んで覚えるのも、自分一人の考えを捨て、古人のすぐれた考え方にならうためである。
『葉隠』哲学は猪突猛進主義ではない。先人の話を聞いたり、古典を読め、などというところは、そのまま現代にも当てはまる。先人の話には多くの経験の積み重ねがあり、古典には、長い風雪に耐えた人間の英知がある。ある意味では、自分の小さな経験以上に鍛えぬかれたものであるといえる。