足立倫行のプレミアムエッセイ

2016年7月9日

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 だが、公共の場での彼は「虚ろ」とグリーンは書く。自動的に無感覚状態に陥る、と。

 では、引退後のアリの本当の心情は?

 アリは小さな声でボソボソと語る。「俺は世界を制覇したが満足感を得られなかった」「ボクシングなんて無意味だ」「いちばん大事な目標は、来世の準備を整えること」。

 リングを降りたアリは無愛想だが優しく、相変わらず自分勝手な言動だが、イスラム教指導部の決めた日程には素直に従う。

 後半生においてアリが宗教的に善行を積んでいるのは明らかだった。「他人への奉仕は天国で払う家賃」とアリは信じていた。

 「世界一有名な男」になって現世のすべての欲望を満たした後、彼は一介のイスラム教徒に戻り、愚直に天国入りを渇仰したのだ。

ヒッチハイクで無銭旅行がしたい

 今回改めて『チーズバーガーズ』の短編を読み返し、一つだけ気付いたことがある。

 アリは唯一具体的な夢として、ヒッチハイクで無銭の世界旅行をしてみたい、とグリーンに語っていた。ドアを叩けばどの土地でも食物や宿をタダでもらえる。「世界一有名な男」の自分ならそれができるはずだ、と。

 このくだりを読み、私は息を飲んだ。

 1971年春にフェニックスでアリの敗戦を見た後、私はアメリカのロサンゼルスからヒッチハイクでメキシコに向かった。

 約3週間後、途中でほぼタダの食物や宿にありつきながら、首都メキシコ・シティにたどり着いた(そこに約10カ月間滞在した)。

 昔も今も私は「まったく無名な男」だが、知らぬ間にアリの夢想の中のごく一部分を体験していたのかもしれない、と思った。
 

  
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