そもそも文化とは相対的なもので、特定の価値観を強要されてはかなわない。鯨を憐れみ日本人を野蛮視する見方にくみするわけにはいかない―と考えるのはいかにも人情であるが、そう思う人の多くも、本稿がこれから記す実態を知ると再考の余地ありと思うのではないか。
この問題くらい、豪州や英国における大衆レベルの対日感情に悪影響を及ぼすものはない。しかも対日批判を続けるのは、揃いも揃って日本が極めて重要と考える国々である。
問われているのは国益の軽重をどう考え、得失の均衡をどこに求めるかだ。勝ち目のない戦いに固執し必要以上の規模で友人を失うことに、筆者は国益はないと考える。
経済合理性すでになし
結論を急ぐ前に、捕鯨が日本経済に占める位置から見ていこう。
鯨肉とは今や日本の食卓で、珍味としてのみ意味をもっている。鯨肉の市場規模は70億円内外で、多く見積もっても100億円を超えない。
1社で同規模の年商を上げる会社なら、日本にざっと1万社はある。農林水産省の調べによると海の漁業生産額は1兆円強で、捕鯨の規模はその1%に満たない。
領海の外、遠洋で鯨を捕る主体は実質上政府のみで、民間会社は1社も存在しない。その政府主体における常用雇用規模は、発注元と請負企業(日本鯨類研究所と共同船舶)の合計で330人程度である。
他方、沿岸小型捕鯨は存亡の危機に瀕している。稼動する船の数は今や全国でたったの5隻。乗組員数は31人。1隻平均水揚げ約6460万円に対し、経費の平均は9500万円を上回り、操業するほど赤字が出る(2007年度)。
このように、捕鯨に託した日本の国益とは、経済面を見る限り既にあまりに小さい。これが、議論の出発点に来るべき認識である。我が国が守ろうとしているのは、何か経済とは別の価値だと考えるほかない。
日本側の姿勢は長年のうち固着を重ね、容易な転換を許さない。
捕鯨関係者を突き動かしてやまぬ思いとは、反捕鯨勢力との格闘を続けるうち身についた「大義は我にあり」とする信念であり、正論を譲るまいとする正義の感情である。
「正しいものは正しい」ゆえに、妥協の余地はない。非妥協的姿勢を貫くことそれ自体が価値であり、その保全は国益だと、そう言わんとしているかに聞こえることすらある。
この状態で、関係者は自ら進んで旗を下ろせない。経済学で言うサンク・コスト(埋没費用)の投下残高がかさみ過ぎ、方針を変えるスイッチング・コストが禁止的に高止まりした状態だと見立てればよい。