◆運動会の徒競走で、ゴール寸前みんなで手をつないで同時にゴールテープを切る。
◆全員が主役になるように、お姫様が登場するお話は学芸会では選ばない。
◆クラス全員が100点を取れるようにとテストの出題は勉強が苦手な子に合わせる。
◆宿題は出さず、自己学習ノートを任意提出。出しても出さなくても評価は同じ。
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こんなシーンをご記憶の方もいらっしゃることと思います。
偏差値重視の受験教育への反省が行き過ぎた教育関係者が、子どもたちに序列をつけることそのものが間違いだという極論に走ってしまったのですね。教育現場では良識ある一部の先生がその流れを食い止めようと努力したようですが、残念ながら、順番がつくものは全て良くないという暴論の方が力を持ってしまいました。
さらに、「自ら考える力を育む」ためには、子どもたちの自主性を尊重することが大切なのですが、こちらも極論が力を持ってしまいます。
子どもの自主性を尊重することと、大人が責任放棄して子どもを放任することとの区別がつかなくなり、「何でも子どもたちに選ばせばいい、子どもたちに決めさせればいい」となってしまった教育現場が続出したのです。
このように、学校という、子育てに大きな影響を与える空間で、極端な結果の平等主義と自主性の過剰尊重の考え方が広がってしまったのですが、その流れの中で「褒めて育てる」ことについても間違った認識が広がりました。
「褒める」と「甘やかし」とは全く別!
つまり、その子の問題点には目をつぶり、いいところだけを見て、ただ褒め続けるのが良い育て方だという誤解です。
さすがにこれでは、ただの甘やかしです。
子どもをスポイルするばかりで、「自ら学ぶ意欲、思考力、判断力」が育つ「褒め方」とはいえません。
「私は失敗したことがない。ただ、1万通りの、うまく行かない方法を見つけただけだ。」と語ったのは、トーマス・エジソンですが、彼に限らず成功した人は口々に「失敗は成功のもと」と言います。
失敗と呼ぶか、うまく行かない方法と呼ぶかはともかくとして、それらはチャレンジした証であり、チャレンジなくして成長はないからです。
ただいいところだけを見て褒め続けるだけの関わり方では、相手が子どもであれ部下であれ、本人が失敗に向き合う機会を奪ってしまいます。自分の失敗や課題に向き合わなければ、乗り越える必要もなく現状維持でよくなりますから、学ぶことも努力することも必要だと感じられなくなります。
本人の成長を願って褒めていたはずが、逆に成長する理由を奪ってしまうのです。
「褒めて育てる」ことの目的は、本来は「本人が育つ」ことにあったはずなのに、「褒める」ことそのものを目的にしてしまったために起きる問題です。