『公教育をイチから考えよう』は、リヒテルズ直子氏と苫野一徳氏、2人の教育学者による共著だ。『オランダの教育』などの著書のあるリヒテルズ氏はオランダの教育事情と比較しながら、哲学者でもある苫野氏は哲学的な考察によって、これからの日本の教育のあり方を探る。現状の教育システムに対する問題点の指摘は厳しい箇所もあるが、教育の未来について、理想論ではなく、改革の可能性が具体的に綴られている。今回は苫野氏にインタビューし教育の可能性を聞いた。エリート教育への疑問や、現在構想中の新しい学校についても話が及んだ。
1980年生まれ。早稲田大学大学院教育学研究科博士課程修了。博士(教育学)。専攻は哲学・教育学。早稲田大学教育・総合科学学術院助手、日本学術振興会特別研究員(PD)などを経て、現在、熊本大学教育学部准教授。著書に『どのような教育が「よい」教育か』(講談社選書メチエ)、『勉強するのは何のため?―僕らの「答え」のつくり方』(日本評論社)、『教育の力』(講談社現代新書)、『「自由」はいかに可能か―社会構想のための哲学』(NHKブックス)、『子どもの頃から哲学者―世界一おもしろい、哲学を使った「絶望からの脱出」!』(大和書房)、『はじめての哲学的思考』(ちくまプリマー新書)ほか。
教育は「自由の相互承認」のためのもの
――この連載の前回にインタビューした著者の方のお話の中で、「勝ち負けを競うこれまでのディベートではなく、お互いの考えを言い合うことで誰も思いつかなかった答えを構築していくコミュニケーションへ」というお話がありました。本書の中でも、苫野さんが似たお話をされていて、印象的でした。
苫野:ディベートは相手を言い負かすことが目的になりがちです。新刊の『はじめての哲学的思考』(筑摩書房)でも詳しく触れていますが、帰謬(きびゅう)法という技を使えばディベートで決して負けません。でもこれは、相手を否定することにかけてはうまいけど、建設的な話には決してならない悲しい技なのです。ディベートをすると、どうしてもこの帰謬法を使ってしまう。批判のための批判をするディベート、教育現場でこれを行うのはもういい加減やめた方がいいと思います。私は、否定派も肯定派も納得できる第3の答えを探っていくことが目的の「共通了解志向型ディベート」を提唱しています。
――このディベートに関する話にも通じるのですが、教育に関する議論の閉そく感の一つの理由は、「どちらが正しいか」という前提があることではないかと感じます。
苫野:私が「問い方のマジック」と呼んでいるものですね。「こっちが正しいか、あっちが正しいか?」と問われると、人は思わず、「どちらかが正しいんじゃないか」と思ってしまう傾向があるのです。でも本来考えるべきは、「あっちもこっちも納得できる、もっと力強い第3のアイデアは何か?」ということのはずです。
もう一つ、教育はみんなが受けてきているので、「一般化のワナ」にはまりやすいという問題があります。自分一人の経験を、まるで誰にも当てはまることのように過度に一般化してしまうワナですね。