写真展に見た憎しみの源泉
ポルテーニョたちの憎しみの源泉がどこにあるのかを示唆してくれたのは、フロリダ通りにある小さなギャラリーで催されていた写真展だった。写真展自体に感心したのではなく、そのテーマと題名だ。メスティーソ(混血)のメキシコとチリ、グアラニー文化の色が濃いパラグアイ、そしてアイマラ族やケチュア族の先住民基礎共同体が存続するボリビアに滞在した経験のある筆者には、ある種の不意打ちだったのである。
―私達の街に住むインディオたち―
さりげないテーマだった。多分ブエノスアイレスでは発展であったであろう。これまで彼らは見向きもされない存在だったに違いない。パンパス(大草原)やアンデスから仕事を捜して出てきた生き残りの先住民のインディオたち、彼らは貧民街で孤立して、そしてギャラリーの中に閉じ込められた。だが本当に閉じ込められ、孤立していたのは誰であったのか。
この写真展はアルゼンチンで絶えず繰り返される復讐と燃え上がる憎悪、ポルテーニョたちの精神錯乱の解かれざる秘密を氷解させてくれた。
それら全ては、殺されたインディオたちの復讐であり、思いもよらない呪いだったのだ。パンパスの亡霊が、彼らの魂の染み込むこの広大な大地が、ポルテーニョたちを捕らわれの身にしたのである。
彼らがインディオ文化を抹殺し、他の南米のようにさほど混血もせず、虐殺したとき、彼らとこの大地とを結ぶ絆は、永遠に切り離され、この移民たちは、この大地の文化とはまったく無縁となった。
彼らの血は、スペインやイタリアに繋がり、文化はフランスに、経済はイギリスに負っている。しかもここにきた人々は、北アメリカの移民のように、新たな世界を作り上げようという理念は一欠片も無かった。あったのは土地からあげる利益だけだった。それが与えてくれるヨーロッパの物質と文化だけであった。年に数度のパリ訪問だった。
労働者は貧しい親戚のいるヨーロッパへの送金のために、土地貴族や産業資本家はスイスやカイマン諸島の口座に金を送金するためだけに、ブエノスアイレスに住んでいたのであり、この都市は回りのパンパスを収奪するためだけに存在していた。
もし何かを築いてもそれは、ヨーロッパを真似た仮染めのものであった。パリの匂いがすればそれでよかった。この国には、他のメスティーソの南米が持つ国民の統合などはない。国民ではなく単に個人がいるだけである。
だからこそアルゼンチン人のチェ・ゲバラは、ボリビアでインディオ基礎共同体を心から理解することもなく、侵略者として振舞い、賛同者を得ることができなかったのである。筆者はブエノスアイレスに名状しがたいぎこちなさをずっと感じていたのである。喩えてみれば、それは何百年も前に建てられた古びたディズニーランドを歩くかのような。
住む場所が仮染めのものになった時、全てが堕落する。誰ひとり自国の政府も自国の通貨もそして回りの人間も信じることはできない。他者は全て敵であり、自らの収奪のわけ前を減らす厄介な存在でしかない。
インディオをほぼ全滅させ、ギャラリーに閉じ込め、全員が征服者になったとき、この南米の大地は、彼らにとってよそよそしいものでしかなくなった。
実は冷ややかなパンパスの地平に囲まれて、ぽつりと一人で孤立しているのは、インディオではなく、彼らポルテーニョだったのである。
マクリ大統領の成否は
さて、中道右派といわれるマクリ大統領は最も成功したイタリア移民2世の典型である。すなわち、かつての軍政との結びつきから巨大化した政商大財閥Socma/Macriグループ(=建設・自動車産業・原発・郵便・廃棄物処理、食肉など多岐の事業)の創始者の長男で企業家、超資産家で自身も妹も営利誘拐されたことがあり、パナマ文書にも名を連ね、仕事上トランプ大統領とは旧知の仲で、以前マラドーナが所属していたボカ・ジュニアの会長だったこともあり(1995~2008)、トヨタカップ決勝のため3度来日している。
アルゼンチンを悪循環から抜け出させることができるかどうかは、経済の自由化を進めながら、出自と違うグループ(労働者、貧民)にどれだけ配慮できるかにかかっている。それには無私の精神が必要だが……。
最後にカルロス・ガルデルのタンゴの名曲「古道具屋(Cambalache)」を聴いてみよう。イタリア移民の暗い洞窟から吹き出してくる、憂愁、恨み、嫉妬、欲望、愛、裏切りで、世界の深淵さえ語りかけてくれる。歌詞は「いつの時代でも、博士も浮浪者も記者も誰もが同じエゴイストでペテン師、世界は不条理に充ちているゴミだめさ」という内容。経済レポートを読むよりもアルゼンチンを知ることができる。
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