2024年11月22日(金)

サイバー空間の権力論

2017年6月6日

「自発的に意志する」
アーキテクチャとしての信用度システム

 中国の信用度システムは、まずもって日本や欧米諸国のプライバシー観からは看過できない論点を多く含んでいる(プライバシー権についての詳細は本稿では割愛する)。日本やアメリカにも個人の信用度をチェックする機関は存在するが、それらは基本的に金融取引情報から査定されるに留まる。中国は社会生活全般に関わる行動から個人が評価されるが、日本や欧米諸国では許さない事例であろう。故に今回の問題は独自のプライバシー観を持った中国に特化したものとも言えるかもしれない。とはいえ、電子情報を利用した制度設計(アーキテクチャ)が、我々の自発的な意志に干渉するという問題設定自体はこの連載でも多く述べてきたことであり、中国を越えて一定の普遍性を持ち得る。どういうことか。

 中国ではみてきたように、電子決済と信用システムを利用しなければ、利用しないというだけで他者との相対的な比較において損をすることになってしまう。これは日本におけるポイントカードの利用者と非利用者の間の相対的損と根本的に同じ構造だが、その影響力は人々の道徳や人権にまで介入しているという意味において、より重大な問題となる。いずれにせよユーザーはデファクト・スタンダード(事実上の基準)となった信用システムを、好むと好むと好まざるにかかわらず利用しなければならない。その意味で一種の強制的なシステム設計であるという批判は妥当だ。

 しかし、だからといって中国の人々が強制的に電子決済&信用システムを強要されているかといえば、そうでもない。ユーザーが電子決済や信用システムを利用するかどうかは、使わなければ損をするとはいえ、基本的に個人の自発性、つまり自由意志にもとづいている。利用に関して個人に裁量権が残されており、その点において自己の道徳や倫理が介在する隙が存在しているとも解釈できる。それはどういう意味を持つのだろうか。

「意志の自由」をどのように行使するか

 米憲法学者のキャス・サンスティーン(1954年〜)は、アーキテクチャ=制度設計によって人々が一定の行動を促されること自体を、必ずしも否定的に捉えない。むしろ人は多くの選択肢の前では適切な選択を行えないという行動経済学的知見を取り入れ、個人の選択肢にあらかじめフィルタリングを施すことで、適切な自己決定を行えるようなアーキテクチャを構想すべきと主張し、これを「リバタリアン・パターナリズム(穏やかな介入主義)」と呼んでいる。

 我々の社会にはすでに多くのアーキテクチャが存在しており、実際それらの技術的・制度的な設計によって我々は道徳的な存在になっている。運転手がシートベルトを締めない限り異音を発し続ける自動車システムは、我々を道徳的な存在にするための有益な設計であり、個人の道徳的振る舞いをサポートしている。

 一方、中国の信用情報システムが道徳的な振る舞いをサポートするかといえば、そこに問題が山積みである点は上述の通りだ。制度設計を行使する政府・企業の影響力は圧倒的なものであり、ある種の強制的な道徳の押し付けが、中国の信用システムには読み取れる。

 とはいえ、便利な技術を人々が簡単に手放すかといえばそうとも言えず、批判してもこのシステムがなくなるとは思えない。ここで重要なのは、技術を単に否定するのではなく、どうすればよりよい技術と我々の関係が構築できるかを考えるべきだろう。注目すべき点は、アーキテクチャが個人の自発性=行動の自由を担保しているという点だ。

 信用システムによって中国の人々が品行方正になるかもしれないが、それは表向きであって、いわば信用システムの前に面従腹背しているとも言えるだろう。そして行動に対する意志の自由が確保されているという点において、過度な信用システムの悪用などが生じれば、中国の人々にはボイコット等を行う余地が残されているとも解釈できる。

 アーキテクチャの興味深い点は、完全監視をベースにした人々の服従を目的にしているのではない、ということだ。人々の自発的な行動により反対の声が上がるのであれば、政府や企業はより適切なアーキテクチャを構想するだろう。技術はその意味において、批判対象であると同時に適切に利用する重要なツールでもあるのだ。

 情報社会化が社会に及ぼす影響力はとてつもない。批判も重要であるが、より詳細な点に踏み込み、利用できるものとそうでないものを見極めていく姿勢が必要であるように思われる。

  
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