2024年12月15日(日)

ACADEMIC ANIMAL 知的探求者たち

2010年8月20日

●書字方向というのは素人にもすごく興味が持てる分野ですよね。

——たとえば、アクセントの話を一般向けにするのはむずかしい。日本語のアクセント研究の水準は大変高いのですが、一般の人にはアクセントの知識がほとんどない。専門研究のレベルと一般人の理解のレベルがかけ離れていますよね。

 だけど、文字の話は違う。文字研究は他の分野に比べて非常に遅れていて、一方、一般の人の文字に関する知識は非常に高い。文字に関してはみんな小さいときから悩まされてもきたし、関心もあるんでしょうね。書字方向の話は、『横書き登場』に書いたものが、これでも最高レベルです。最高水準のものでも一般の人が十分に読んで理解できます。他の分野とはそこが違う。

牛耕式のイメージ

『横書き登場』では牛耕式という聞き慣れぬ書字方向も載っていましたが、これはなんで普及しなかったんでしょうか。

——畑を耕す牛が引き返して進むように、一列ずつ交互に逆方向へ読み進めるものですね。(※右図参照)頭から読んでいく分にはいいでしょうが、途中から読み始めた場合に、文字の向きで示さないとどっちに読み進めていいかがわからなくなります。だから、牛耕式では文字の向きが列ごとに変わります。でも、漢字のような複雑な文字をひっくり返して読み書きするのは難しいんですね。だから日本語には向かなかったんじゃないかな。

 それに縦書きの牛耕式だと、一列おきに天地を逆さまにして下から上へ読まないといけない。それはすごく抵抗がありますよね。例外的な例はごくごく少数あるものの、人類の文字で下から上に向かって書くことは基本的にありません。これは我々が重力の下で生きているせいだと思います。

 上下前後左右といいますが、重力の下で暮らしている我々にとって、前後左右は容易に変えられるのに、上下は簡単に変えられない。上下を絶対的なものと見ている我々には、上下を逆転させて文字を下から上に書いていくことには抵抗が大きいのだと思います。

1909年に刊行された金沢一郎編『西班牙語動詞字彙』の「緒言」。縦書き・右への行移りとなっており、書字方向の歴史上、非常に珍しい存在といえる。
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●これだけ左横書きが一般化すると、行が右に移っていく縦書きスタイルが普及してもおかしくない気がします。

——上から下への方向は絶対的でしょうが、左右方向は絶対的ではありませんから、行が左へ移ってゆくというのはルールとしてはそれほど強くない。だから、縦書きで行が右へ移るというのが広がる可能性も低くはないと思いますよ。我々でもメモ書きとか黒板の板書とかで、スペースの問題で無意識に行が右に移ってしまっていることが思いのほかよくあります。

 ただ、縦書き・右への行移りは左横書きと共存がしにくいんです。左横書きの外国語原文を引用するときに、縦書き・左へ行移りならば、そのまま90度横倒しにすれば入れられます。でも、縦書き・右へ行移りだと、横倒しにしたのでは、うまく入らない。文字列展開方向が逆になるという問題があります。

⇒後篇につづく

屋名池 誠〔やないけ・まこと〕
慶應義塾大学文学部教授。1957年生まれ。85年に東京大学大学院博士課程中退。
著書に『横書き登場』(岩波書店)など。

◆WEDGE2010年9月号より

 

 

 

 
 

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