では、韓国大使館員がぼやく「日本の過剰反応」とは何か。
代表的なのが、韓国政府が今年9月に国立墓地内への元慰安婦の慰霊碑建立計画を発表したことへの反応だろう。日本では「慰安婦問題を蒸し返すのか」と反発する声が出て、菅官房長官も記者会見で「日韓合意の趣旨、精神に反する」と述べた。
ただ、「すべての元慰安婦の名誉と尊厳の回復、心の傷の癒やし」が合意の目的であるのだとすれば、慰霊碑の建立自体がその趣旨から外れると言えるのだろうか。碑文に事実と明らかに違う文言が刻まれるのであれば、それは問題だ。それでも「そうなるに決まっている」と決め付けるよりは、問題のある内容にならないよう働きかけることの方が生産的ではないだろうか。
逆効果になりかねないご都合主義の情報発信
慰安婦問題は、国際社会への「宣伝」合戦になってしまっている。本来は望ましいことではないが、日本として放置しておくこともできない。アジア女性基金や日韓合意を含めた日本のこれまでの取り組みや、そもそもの慰安婦制度をめぐる事実関係について日本の立場を国際社会に説明していく必要はある。事実と違う宣伝が、あたかも事実として流布されることは望ましくないからだ。
ただし、重要なのは歴史的資料を真摯に扱う姿勢だ。既に見つかっている資料であるにもかかわらず、自らに都合が悪いからと無視したり、いかにも無理な解釈を付けたり、ということをしてはならない。そんなことをすれば、第三者からの信用を失うだけである。
現代史家の秦郁彦氏が著書『慰安婦問題の決算』(PHP研究所、2016年)の「あとがき」に書いているエピソードは、そうしたことを深く考えさせる。秦氏の著書『慰安婦と戦場の性』(新潮選書、1999年)の英訳に関する話だ。「私観を避け史的経過を軸に、左右を問わず研究者、一般読者が参照しうるエンサイクロペディア(百科全書)にしたい」という狙いで執筆された同書は、専門家からも高い評価を得ている。
秦氏は「あとがき」で「国際世論の誤認、誤解を解くのに、説得工作やロビー活動は要らない」と指摘する。そして、「典拠を明示した第一次資料に依拠する実証的学術書の英訳版を1冊だけ送りだせば足りると私は判断している。事実は何よりも強いから、それに則した材料を提供すれば、対処策は英語世界の読者が決めてくれるはずだ。説得を焦るあまり押しつけがましくなるのは、むしろ逆効果を招きやすい」と説く。きわめて重要な視点だろう。
「あとがき」によると、秦氏の考えが伝わったのか、外務省の有識者会合が慰安婦問題に関する対外発信の一環として『慰安婦と戦場の性』の英訳を勧告し、2013年夏に内閣官房の事業として英訳出版されることが決まった。ところが、11月になって事業を担当する内閣広報官に突然呼び出され、英訳にあたって一部を削除したいと告げられたという。第二次大戦前後の英米独仏ソをテーマにした第五章「諸外国に見る戦場の性」について、「外国人の読者を刺激するおそれがある」という理由でまるまる削除するよう求められた。
秦氏が「他に削りたい箇所があるか」と聞くと、「上海の慰安所で検診していた麻生軍医の回想録から、日本人慰安婦に比べ朝鮮人は若く初心の者が多いと引用したくだりも落としてくれ。他にもいろいろあるが…」という答えが返ってきたそうだ。秦氏は拒絶したので、英訳の話自体がなかったことになってしまった。不当な削除要求によって、意義のあるプロジェクトがつぶされてしまったことは極めて残念である。
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