2024年12月2日(月)

WEDGE REPORT

2018年4月10日

裏切り者は殺せ、白人支配を覆すために手段を選ぶな

 1985年、ようやく解放された時、ウィニーは反アパルトヘイト闘争を率いる者の中でも最も過激なリーダーの一人になっていた。「数々の試練が自分を鍛えた。私は敵の存在により初めて本当の私になった」と言う。ウィニーの周りは「マンデラ統一サッカークラブ」の荒くれが取り巻き、数えきれない殺人、誘拐、リンチを実行した。ウィニーはその中核として声高に白人への闘争を叫びたてた。「ネックレスリンチは正当」と断じ、ひるむ様子さえ見せなかった。

 ネックレスリンチとは、白人社会に内通した黒人裏切り者に対する見せしめリンチのことで、油を満たした古タイヤを首に巻きそれに火をつける処刑方法である。裏切り者は殺せ、黒人であっても白人に内通した者は許すな。殺人もリンチも白人支配を覆すための闘争だ。手段は選ぶな、いや、手段が凶暴であればあるほど社会に大きな衝撃を与える。国際社会の目もひきつけることができるのだ。

 1989年、14歳の少年ジェームズ・セイペル、愛称ストンピーがウィニーの「クラブ員」により誘拐された。少年は、サッカーボールのように蹴飛ばされ、小突き回され、挙句の果てにのどをかき切られ殺された。ウィニーは事件の首謀者として訴追され、6年の有罪判決を受けたが、後、罰金刑に減刑された。

マンデラの釈放と、27年の間に生じた夫婦の深い溝

 そんな時、マンデラが釈放された。1990年、実に27年に及ぶ獄中生活の果てにであった。ウィニーはマンデラと手を取り合って凱旋行進をした。無論、もう一方の手は握りこぶしを振り上げ反アパルトヘイトの断固たる意思を示し続けた。ややあって、白人のアパルトヘイト体制はついに終焉、1994年マンデラ大統領が誕生した。ウィニーも、形ばかりだったが文化科学副大臣に就任した。しかし、このポストは長く続かない。11か月後、ウィニーは汚職容疑で解任される。

 27年間別々に暮らした夫婦にとり、反アパルトヘイトの英雄として世間の賞賛と注目の中に過ごす日々は平穏ではありえない。マンデラもウィニーも、どうやって二人の時間を過ごしたらいいのか分からない。27年間、年に二度の対面はガラス越しでしかなかった。意思の疎通もない。既に二人とも人生の終盤を迎え、若き日の情熱を感じることもない。戸惑いだけが二人が過ごす日々を覆った。


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