Wedge REPORT

2018年12月31日

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リストラの心痛

 日産豪州工場が製造し日本に輸出されていたブルーバード・オージーを購入しようと思い、辻さんに相談したことがある。辻さんの答えは、お勧めできないだった。豪州工場から輸入したブルーバード・オージーを追浜で陸揚げし試験運転を行っている最中に、ブレーキを踏んだらシートが吹っ飛んだとのエピソードを教えてもらった。要はシートを固定していない状態で出荷するほど品質管理がなされていないということだった。

 この話の直後、1992年に日産は豪州工場の閉鎖に踏み切る。工場の従業員にも移民が多く、工場で使用する言語も英語だけでなく多言語に亙り、コミュニケーションが取れないことも閉鎖の理由として辻さんは挙げていた。満足いく品質の車が製造できないとなれば撤退が選択肢となるのは止む無しだが、生産能力調整のため工場閉鎖を行うとなると経営者は大きな心痛を抱えることになる。

 辻さんは社長就任の翌年主力生産工場の一つ座間工場の閉鎖を発表する。生産台数が減少し、過剰設備を抱える中での決断だった。辻さんが気にかけていたのは、従業員のことだった。九州出身の従業員は九州工場へ、北関東出身の従業員は栃木工場へ、栃木工場で勤務する九州出身の従業員には九州への転勤を打診するという方法を取っていると話されていたが、閉鎖決定後辻さんは急速に体重を減らした。

 大学時代に柔道をされていた辻さんはがっちりした体格だったが、工場閉鎖発表直後10キログラム体重が減った。病院で検査を受けられたが、どこも悪いところはなかったと言われていた。経営者にとっては、工場を閉鎖するストレスは非常に大きかったのだろう。

日産リバイバルプランが残したもの

 ゴーンさんの日産社長就任後1999年10月に発表されたのが、日産リバイバルプランだった。目標とした2000年度黒字化、2002年度売上高営業利益率4.5%以上、2002年度自動車事業有利子負債7000億円以下の3目標は全て達成されたが、実行のためにルノーからの出資金がリストラ費用として活用されている。ルノーの資金がなければ、リバイバルプランと呼ばれるリストラの実行はできなかっただろう。

 プランでは、座間工場を閉鎖した後も低迷していた稼働率改善のため村山工場の閉鎖を決め、従業員の削減を行った。連結従業員数は、1999年3月末14万8000人、2000年3月末14万1500人、01年3月末13万3800人、02年3月末12万7000人と減少を続ける。辻さんはゴーンさんがルノーから派遣された時点で、「経営責任がある」として会長職を辞任したが、その後多くの従業員が日産を去った。

 さらに、コスト20%削減を実行するため部品メーカーを40%、サービスサプライヤーを60%削減、国内販売会社を98社から80社に削減した。雇用と系列を重視するそれまでの日産経営者ができなかったことを、ゴーンさんはルノーからの資金も利用し実行した。しかし、中期でも復活を目指したリバイバルプランは、世界生産、販売台数を増やしたものの、少なくとも日本市場については復活をもたらさなかった。

 日本が自動車生産台数で世界2位になったのは1967年だが、60年代前半は日産がトヨタを抑え国内販売シェア1位だった、その後も日産とトヨタは熾烈なシェア争いを続けるが、組合との確執もあった日産は徐々にトヨタに差を付けられ、90年代にはトヨタの半分程度のシェアに落ちていた。日産の日本での生産・販売台数推移は図‐1の通りだが、波を描きながら減少している。

 リバイバルプラン後も販売台数の落ち込みに歯止めがかからないため、2002年には軽自動車の販売を開始し、販売台数増を図る。2017年度日産が最も多く販売した車は軽のデイズ13万7000台だった。同年度の販売台数56万4000台(有価証券報告書)から軽18万7000台(全軽自協調べ)を除けば、登録車は37万7000台となり、96年の販売台数の3分の1まで落ちている。

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