プロセスを言語化できていないと……
工藤:私が「この道でいこう」と決めたのは教育実習でした。当時は高校教員を目指していて、幸運なことに母校で教育実習をさせていただくことになったんです。受け持つクラスの担任は、なんと私自身の高校時代の担任の先生でした。そんなこともあって最初からいきなり授業を丸々任せてくれたのですが、私は教育学部ではないので、指導法なんて学んでいないんですよ。
澤:そうですよね。応用数学科だし。
工藤:そこで、授業を生徒たちへのプレゼンの場だと考えてストーリーを組み立てました。生徒たちの顔を見ながら、ストーリーが変化すれば臨機応変に対応していく。その2週間は、楽しくて楽しくて仕方ありませんでしたね。
澤:体験って大事ですよね。教育実習は究極の体験の場なのだと思います。工藤さんはそこで自分なりの教員像を見出したということではないでしょうか。「あの先生のようになりたい」といった形でロールモデルに依存してしまうと、そのロールモデルが不在になったときに、自らのアイデンティティが崩壊してしまいかねません。
工藤:それは教員たちにも語っています。「あなたのおかげで教員になりたいと思いました」と言われたら、私たちはついうれしくなってしまうけれど、それだけでいいのだろうかと。自分自身が教員としてどのような価値を発揮しているか、あるいはどのようなプロセスで問題解決を図ってきたか。それを言語化して伝えられなければ、後輩たちの学びにはつながりません。
澤:そう、言語化しないと再現できないですよね。僕は担当する「NewsPicksアカデミア」の講義でもこの話をよくしています。言語化できていない体験を再現するために、ある有名なアニメキャラクターの絵を描いてもらうんです。誰もが知っているようなキャラクターですよ。でもやってみると、なんだか怖い絵ばかりになってしまう。よく知っているはずなのに、描き方を言語化できていないから再現できないわけです。再現できれば何回でも描けるし、うまくなれるのですが。
工藤:教育の現場で「ガッツ」や「無償の愛」といった情緒的な言葉を使ってしまいがちなのは、まさにプロセスを言語化できていないということなのかもしれません。無償の愛と言われても、それが何を指すものなのか分からない。そもそも自分の心だってよく分からないのが人間です。だけど行動は変えられるんです。
澤:そうですね。人間の心の中に偏見がないはずはないんだけど、これを「あってはならないもの」「消し去らなければならないもの」だと考えて苦しんでしまう。「自分はあるべき状態じゃない」と思って悩んでしまう。そんなことが多いように思います。
工藤:子どもたちの発達も人それぞれです。コミュニケーションが苦手な子も結構いる。だけど「みんなと仲良くしなきゃダメ」「みんなで遊ばなきゃダメ」と言われてしまうこともあります。本当は、その子はグラウンドの隅で虫を見ているほうが楽しいかもしれないのに。
澤:僕はまさに、隅っこで一人でアリを見ていたい子どもでしたよ。同調圧力という言葉が大嫌いなんです。