2006年トリノパラリンピックに日本選手団史上最年少で出場した太田渉子。冬季パラリンピック3大会に連続出場を果たし、トリノではバイアスロン12.5kmで銅メダル、バンクーバーではクロスカントリースキーのスプリントで銀メダルを獲得。2006-2007ワールドカップではバイアスロンでシーズン総合優勝を果たすなど冬季を代表するパラアスリートとして世界に名を馳せた。
その太田が2016年にパラテコンドーに転向。夏に舞台を移し2020年TOKYOを目指して新たな挑戦を始めている。
アスリートしての軌跡を振り返りながらチャレンジの源泉を紐解いていきたい。
「できなかったことができるようになるって嬉しいですよね」
太田渉子 山形県尾花沢市に生まれる。
「スキーは自然が相手というか、自分との戦いでした。一方、テコンドーは言ってみればジャンケンのように相手がこの技できたら、私はもっと強い技を出して戦うという感じの競技です」
「練習中に男子の選手に蹴られれば、うっと苦しくなるし、とても痛いですよね。そういうときは雪山が恋しくなるんです」
インタビュー中の太田は終始やわらかな笑顔を浮かべていた。言葉を慎重に選び、我々の質問に丁寧に答える姿からは、テコンドーのような激しい競技をする人にはとても見えない。
しかし、そんな柔和な雰囲気の中にも、時折意志の強さを感じさせるような表情を浮かべた。
やはり、トップアスリートなのだ。
太田とスキーの出合いは小学校低学年の頃、授業でスキーを習ったことに始まる。先天性の左手指全欠損のため、幼い頃は右腕一本でストックを持って滑ることが上手くできなかった。
それもスポーツ少年団に入るまでのことで、入団後は徐々滑れるようになり、それが嬉しくて加速度的に上達して小学5年生になると校内のスキー大会でリレーの選手に選ばれるまでになった。
「できなかったことができるようになるって嬉しいですよね。はじめは真っすぐに滑ることさえできなかったのに、リレーの選手になって、みんなから応援されました。それが嬉しくて良い思い出になっています」
中学に入ると陸上部に所属して中・長距離走の練習と並行して、夜はスポーツ少年団でスキーのためのトレーニングという毎日になった。その当時が練習量としては一番多かったかもしれないと太田は振り返る。
陸上部では800m走と1500m走の2種目を走った。成績という面では地区予選までで県大会への出場はかなわなかったが、一方スキーではパラノルデックスキーチームの荒井秀樹監督にスカウトされ、日本障害者スキー連盟の強化指定選手に選ばれた。
「荒井監督にお会いするまでパラリンピックという言葉を知りませんでした。先天性の障害で、かつ一般の小中学校に通っていましたから自分が障害者という意識もありません。最初に『やってみないか』と誘われたときは『障害者』という言葉に抵抗を感じましたが、実際にジャパンパラの大会を見たら、片腕の選手や目の不自由な選手がガイドといっしょに滑っている姿を見て感動しました」
「みんな凄く速くて、迫力があって、カッコいいなぁと思ったんです。そこから障害者スポーツに対する考え方が変わっていきました」