パラアスリート~越えてきた壁の数だけ強くなれた

2019年7月2日

»著者プロフィール

 そして中学2年生にしてクロスカントリー、バイアスロンの日本代表に選出され2004年にカナダで行われたワールドカップに出場を果たした。

 パラリンピックには16歳以上という年齢制限があるがワールドカップにはそれがなく日本代表史上最年少の中学2年生での出場となった。

 

 「クロスカントリーの5km、10km、15kmの4種目に出場したのですが、中学生の大会では2kmくらいしか経験がなかったので長い距離を完走するのがやっとでした」

 「地元カナダやアメリカ、ロシアの選手たちが出場する中で5kmでは4位だったので、もう少し体力をつければメダルに手が届くのかなとも感じました」

 「その大会には私と同じ障害のクラスで圧倒的チャンピオンのロシアのアンナ・ミレニナという選手が出場していたのですが、それ以来、私のあこがれの選手になりました」

 太田にとって国際大会はもとよりすべてが初めての経験であり、アスリートとして自らの可能性を知る大会でもあった。

 W杯カナダ大会の翌2005年はアメリカで行われた世界選手権のリレーと、W杯イタリア大会のクロスカントリーで銅メダルを獲得しアスリートとしての頭角を現し始めた。

 「イタリア大会は翌年行われるパラリンピックのプレ大会として行われたのですが、当時はまだパラリンピックがどんな大会かも知らず、ロシアのアンナ選手を目標に練習して、アンナ選手を追いかけるように出場した大会でした」

トリノパラに日本選手団史上最年少で出場、銅メダル獲得

 太田の活躍の場はさらに広がり、2006年3月に開催されたトリノパラリンピックに日本選手団史上最年少で出場を果たした。

 「いろいろな国やいろいろな種目の人たちが参加していて国際色がとても豊かでした。それにワールドカップやその他の国際大会とは違いメディアの数が多くて驚きました。カナダやアメリカの大会に出た時は日本のメディアはひとりもいなかったのに、パラリンピックでは数多くの取材を受け、練習のたびに大きなカメラを持った方たちがいて集中できないような状態でした。観客の数も多くパラリンピックはそれまでの大会とはぜんぜん違う規模の大会だということを知りました」

 トリノ大会ではバイアスロン12.5kmで銅メダルを獲得したが、得意のクロスカントリーでは入賞することができず9位に終わったことが悔しかった。

 「当時の私はまだ体力がなくクロスカントリーの走力だけではメダルに手が届くところまでいっていないことがわかっていましたので、バイアスロンで射撃の精度を上げればメダルがねらえるかもしれないと、その1年前から射撃に重点を置いた練習をしていました。当時は女子のバイアスロンのレベルがそれほど高くない頃でしたから、その成果がでたのかなと思います」

 メダリストとして太田が帰国すると地元の駅には入り切れないほどの人たちが帰りを待っていた。

 本人は気が付いていなかったが、パラリンピックでメダルを獲得することは地元にとっても大きな価値のあるニュースだったのである。

高校時代にフィンランド留学

 太田は山形県立北村山高等学校に進学後、一時休学しフィンランドのソトカモ高校に留学した。

 国際大会に出場した際に世界各国の選手たちとコミュニケーションを図りたかったことと、本格的にバイアスロンの練習がしたかったからだ。

 当時国内には屋内の射撃場やビームライフルによる練習会場しかなく、日常的にバイアスロンの練習をするため留学して練習拠点をフィンランドに移したのである。

 「フィンランドはクロスカントリースキー発祥の地でウインタースポーツが盛んな国なので国際科のある学校に留学しました」

 「スポーツ生が入る寮があって、その寮が日本でいうところの国立スポーツ科学センターのような強化拠点になっています。トレーニングエリアの中に一年中スキーができるトンネルがあったり、射撃場やプール、ジム、レストランが完備されていました」

 「そこでは地元のちびっこたちも日常的にスキートンネルで滑っていたり、旅行者たちもスキーを楽しんでいました。練習環境だけではなく、地元の人たちとのコミュニケーションという点でも貴重な体験になりました」

関連記事

新着記事

»もっと見る