この留学期間に2007年W杯フィンランド大会のバイアスロン12.5kmで初優勝し、さらに同シーズンはバイアスロンでシーズン総合優勝を果たした。
翌2008年W杯フィンランド大会ではクロスカントリースキー、クラシカルのスプリントで優勝。続くノルウェー大会ではクラシカルのショート、スプリントともに優勝。同シーズンのクロスカントリースキーで総合2位という成績を収めた。
「W杯は年に4回ほど行われています。日本にいたら旅費も時間もかかるので年に1~2回くらしか出場することができないのですが、練習拠点をフィンランドに置いていたため全ての大会に出場することができました。移動による身体の負担も少なかったことが好成績に繋がったのだと思います」
フィンランドにおける4年間は学校の授業で週に3回のトレーニングがあって、授業以外の日はパーソナルコーチがついてトレーニングを行っていた。戦績がその成果を示している。
バンクーバーパラ後、引退を決意
そして迎えた2010年のバンクーバーパラリンピックに出場し、クロスカントリースキー・クラシカルのスプリントで銀メダルを獲得した。
「このバンクーバーに照準を合わせていたのはバイアスロンだったのですが、ピークを合わせられずメダルには届きませんでした。その後、クロスカントリーで得意な種目でもメダルが取れず、当初出場予定の無かった種目にも出ましたが疲労だけがたまっていきました」
「ワックスの専門スタッフとコミュニケーションを図ったり、練習内容を見直したりして、最終日のクラシカルスプリントに向けて調整をしていきました。最終日、他の競技が終わっていくなか、最後の最後、それも最終滑走でやっとメダルを取ることができたのです」
高校卒業後は実業団チームのある日立ソリューションズの社員となって、太田はバイアスロンとクロスカントリースキーでW杯の表彰台に立ち続けた。
そして競技人生の集大成ともいえる2014年ソチパラリンピックでは日本代表の旗手を務めた。
「ねらっていたバイアスロンでメダルの獲得はならなかったのですが、6位という成績を収めることができました。射撃の方も納得できるものですし、自分の持てる力は全て出し切ったと思い、自分の競技人生に満足して引退を決意することができました」
再び歩み始めたアスリートの道
2014年4月16日、太田は山形県庁で引退を表明した。
以後、東京都の選手発掘プログラムやイベントや講演会で選手時代の経験談を語り、またアンチ・ドーピング啓発活動にも参加していった。
そうした中、2015年にパラテコンドーが2020東京大会の正式競技に決まった。しかし、当時、国内には男女ともにパラテコンドーの選手はゼロ。全日本テコンドー協会が有望な選手を発掘していたところ、引退後の太田に声が掛かった。
「トークイベントのときでした。引退後は趣味でスノーボードやクライミングを楽しんでいますし、格闘技にも興味がありますなんて、お話したことがきっかけで『いい競技があるよ』と誘われたのがパラテコンドーでした」
テコンドーを始めたとは言っても、スキー引退後はごく普通の会社員として働いていたため、練習は仕事を終えたあとに時間を見つけて通っていたいわゆる趣味の世界だった。
それでも2016年と2018年のアジア大会で銅メダルを獲得した。
「最初にアジア大会に出場したときは、どんな選手が出てくるかわからなかったので、あまりにも強そうな選手だったら出なくてもいいよって言われていたんです」
と太田は笑う。
まだ本格的に始める前の段階なので、ゆる~くスタートしたことがうかがえるエピソードだ。
しかし、2018年に2020年東京大会に出場を目指す決意したことによってすべてが変わった。
それまでの環境では長期の合宿に参加したり、海外遠征などには参加できないため、目指す2020東京大会での勝利は望めない。そこで2018年秋に思い切って練習環境を整えることができるソフトバンクに転職した。
太田は再びアスリートの道を歩み始めた。