2024年11月24日(日)

日本人秘書が明かす李登輝元総統の知られざる素顔

2019年7月30日

李登輝にとって憧れの存在だった「兄」

 この両親のもとに生まれ、慈しまれて育った二人の息子たちだったが、李登輝の見方は少し客観的だ。「親父は兄貴のことを殊の外、買っていたと思う」と。小さい頃から、近所のガキ大将的な存在だった兄は、弟がいじめられているとすぐさま駆けつけて助けてくれた。

 水泳にしても野球や剣道にしても、何をやらせても得意だった兄は、弟である李登輝からみても憧れの存在だった。何をするにも兄を手本として付いていくようなところがあったという。だから「親父は兄のほうに期待をかけていた」というようなことを李登輝が言っても、そこには嫉妬めいたものは感じられない。むしろ、言葉の端々に「尊敬する、大好きだった兄貴」というような兄弟愛を感じるのだ。

 その兄は1943年(昭和18年)から台湾で始まった海軍志願制度に応募して合格する。当時は警察官として勤務し、すでに妻と幼い子供が二人いる身の上だった。台湾日日新報に掲載された李登欽のインタビューには「出来ることなら第一線でお國のために華華しく活躍したいと思つてをりましたがそれが本當になりました(中略)これからは立派な帝國海兵としてお役に立つ日の一日も早く來ることを願ふばかりです」と語っている(昭和18年9月22日付)。

「哲学」の重要性を説いた若き日の李登輝

 実はその3ヶ月ほど前の台湾日日新報には、李登輝自身がインタビューに答えた記事が掲載されている。「私も志願する 信念を語る岩里君」と題され、李登輝は「軍隊の制度は吾々が自己の人間を造る所であり、色々と苦しみを忍んで自己を練磨し明鏡止水の境地に至るに是非必要な所だと信じてゐる」などと自分自身の考えを述べている。

「台湾日日新報」に掲載された、若き日の李登輝さんのインタビュー 写真を拡大

 同時に「近く内地に行くこととなってゐるが内地に行つたら日本文化と結びつきの深い禪の研究をしたいと思ふ」や「現在の哲學が軍人に讀まれていぬといふ所に現代の學問の危機があるのではないだらうか」などと語っている。

 もちろん当時は戦時体制であり、かつ台湾は総督府の管理化にあった。当時台湾における最大の新聞であった台湾日日新報でさえ、総督府の意に染まない記事は載せられない状況だったことは想像に難くない。そのため、李登輝の発言も、日本統治下における教育制度を評価するなど、当局の顔色を伺いながらの部分がありつつも、禅を学びたいとか哲学を学ぶことの重要性などに言及しているところは、往年の李登輝の哲学観がこの青年期からすでに形成されていたことの証左といえるだろう。

 ただ、李登輝が「結局教育と徴兵制が本島人が日本人として生まれ變つて行く大きな要件ではないかと思ふ」と発言しているように、志願兵制度に応募しなければ「日本人」として見なしてもらえなかった当時の台湾社会のあり方も垣間見える。


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