あんたならどう思うか。その気持ちを記事に書けばいい
日本の統治下にあり、戦争という庶民には抗えない時流の中で、愛息子二人ともが「志願する」と発言し、両親はどう捉えただろうか。
海軍志願兵となった兄の李登欽は、訓練のために高雄で招集された。ある夏の暑い日、その兄と李登輝は高雄の街で会っている。「どうでもいいようなことを何時間も話した」と李登輝は言い、写真館で二人の写真を撮ってもらったという。これが兄と弟の今生の別れであった。結局、海軍上等機関兵として出征した兄は昭和20年2月15日、フィリピンのマニラで戦死している。
「私は兄が大好きだった。だから今でもベッドのなかで時折り思い出すことがある。そうなるとどうしても泣けてしまうんだ」と、李登輝は兄のことになるとまるで80年以上昔に戻ったかのようだ。
兄の李登欽は散華した英霊として靖国神社に祀られているが、李登輝は2007年6月に念願の参拝を果たした。夫人や孫娘を伴っての昇殿参拝だった。訪日そのものがなかなか叶わず、総統を退任してから7年後のことだった。「なぜ今まで、総統になる前に参拝しなかったのか」と言う人もいる。確かに、副総統だった時代、李登輝は何度かトランジットで東京を訪れているから、参拝することは可能だったはずだが、「いや、その頃は兄が靖国神社に祀られているなんてことは知らなかった」というのだ。
ついに、靖国神社に来られたときのことを李登輝は今でもこう話す。
「父は兄が戦死したと聞いても決して信じなかった。だから家には祭壇もなければお墓もない。兄の霊を慰めるものがなにもない。そんな我が家に代わって靖国神社はずっと兄の霊を慰めてくれた。だから私は兄に会いに来ると同時に、靖国神社にどうしても感謝を伝えたかったんだ」
このときの訪日では、李登輝が靖国神社を参拝するかどうかが、日台メディアの大きな注目を集めた。日本到着後も、ことあるごとに尋ねられたが、李登輝は毎回こう答えていた。
「60年以上会っていない兄貴が靖国神社にいる。弟の私が東京まで来ている。あんたならどう思うか。その気持ちを記事に書けばいい」と。
血まみれだろうが幽霊だろうが、もう一度会いたい
李登輝と兄の絆を示すエピソードがもうひとつある。
戦争が終わり、李登輝も京都帝大での学業を途中で切り上げざるを得ず、内地から台湾へと戻ってきた。祖父が「早く帰ってこい」と熱心に呼び戻したという。そこで不思議な話を聞いた。
当時李家にいた若いお手伝いさんが真夜中、兄が自分の子供たちを蚊帳の外から見つめているのを何度も目撃したという。その兄は血まみれだったそうだ。お手伝いさんはすっかり怖がってしまい、暇をもらって家に帰ってしまったという。
その話を聞いた李登輝は、兄貴が子供たちに会いに来た、と直感した。それならば、血まみれだろうが幽霊だろうが、大好きだった兄貴だからもう一度会いたい、と寝ずの番を始めた。一ヶ月近く、真夜中じゅう起きて兄が現れるのを待っていたが、ついに出て来てはくれなかったという。「おかげで体重が10キロ近く減ってしまった」と今でも思い出したように李登輝は言うが、それほどまでに慕った兄との絆が偲ばれるエピソードである。
李登輝と兄が最後に撮った写真は、現在も靖国神社の遊就館に飾られている。
1977年栃木県足利市生まれで現在、台湾台北市在住。早稲田大学人間科学部卒業。大学卒業後は、金美齢事務所の秘書として活動。その後、台湾大学法律系(法学部)へ留学。台湾大学在学中に3度の李登輝訪日団スタッフを務めるなどして、メディア対応や撮影スタッフとして、李登輝チームの一員として活動。2012年より李登輝より指名を受け、李登輝総統事務所の秘書として働く。
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