大人は枝切れ、赤ちゃんは犬が脱糞処理に利用される
参考になるのは、昨年著者インタビューで取り上げた奧野克巳さんの『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして文化人類学者が考えたこと』(亜紀書房)である。
調査対象は、ボルネオ島(マレーシア、サラワク州)の密林の狩猟採集民プナン。
彼らはTシャツを着て州政府の建てた家屋も持っているが、ほぼ毎日森の中でヒゲイノシシやリーフモンキー等を狩って暮らす。
従って日常の生活は森のキャンプ地だ。
移動するキャンプ地の周辺に「糞場」があって、そこで野糞をする。倒木の幹や枝の上にしゃがんで、地面に大便を落とすのだ。その後の処理は、持参の山刀で切った枝ぎれを使う。それで便の残りカスをこそげ取る。
奧野さんによると、「枝を用いるプナンの糞便処理は、インドや東南アジアで一般的に行われている」とのこと。
私はこれを読んで、8世紀の平城京の便所跡からたくさんの「ちゅう木(大便用の平たい木片)」が出土したことを思い出した。
ただし、プナンでは、糞便は個々の人間の分身と見なされ、品評される点が異なる。
彼らは糞場を通り過ぎる時、これは昨日食べ過ぎた誰某のもので、「イノシシを食ったのにクマ肉みたいに酷い臭い」とか「赤っぽい」「いや紫だ」と感想を述べ合うのだ。
放屁を「作品」として論評し合うことを含め、奧野さんは「皮膚の内側で身動きできなくなっている私たちの自我のあり方とは異なる自我のあり方」、とプナン流を評価するのだが。
プナンの便物語で面白いのはもう一つ、赤ん坊の糞便処理に犬が利用されていること。
プナン社会には3種類の犬がいる。「良い犬(猟犬)」と「アホ犬」とペット犬である。
良い犬は人間の命令を理解し、獲物を見つけ追い詰める勇敢な犬だ。彼らは世話をされ、餌を与えられる。アホ犬は人間の命令に従わない犬。餌も与えられず放ったらかしにされ、罵倒され、追い払われる。
ところが意外なことに、プナン社会のペット犬はアホ犬から選ばれるのだ。
赤ん坊はうんちを垂れ流す。すると母親は近くの犬を呼んで糞便まみれの肛門を舐めさせる。近くの犬は猟に行けないアホ犬ばかりだが、中に人懐こい性格の犬がいるのだ。
赤ん坊はキャッキャと喜ぶ。すると母親や子どもはその犬をそばに置こうと思う。森の夜は冷え込むので、人間より体温の高い犬と家で一緒に眠ると温かく、重宝がられる。
かくして、アホ犬がペット犬に昇進する。
ペット犬は、マルタ島のマルチーズのように古代から存在したと言われるが、ペット犬誕生の理由は、案外プナン社会のようなものだったかもしれない。
さて、赤ん坊から幼児になると、もう犬は使わない。幼児は高床式の床の隙間から排便をする。事後処理は、母親が水で流すか布で拭き取る。幼児が自分で棒切れや木の枝を使うようになるまで、かなり時間がかかる。
「自然脱肛」の他の動物なら考えられない長い時間、人間は自らの糞便処理のため母親や家族の手をわずらわせることになる。
これは全体、どういうことなのか?
推察できるのは、子どもと養育者が長く身体を触り触らせることにより、相互に「親密さ」や「愛着」が生まれ深まることだ。
全哺乳類の中で人間だけが「自然脱肛」ではなく、尻を汚す。それは人間という生物にとって、食物摂取は当然重要だが、養育者や仲間たちと密接に関わることはそれに負けぬほど大切、という意味を示しているのでは?
秋の長い一日、足が痺れるほどトイレの温かい便座に腰かけ、そんなことを考えた。
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