しかし、無過失無限責任という厳格極まりない規定は、一定の付随条件が整っている限りでのみ適用可能な極めて特殊なものでもある。その条件の第1は保険制度である。事実、法律の第8条は保険制度を定めているが、損害の予定額を1200億円としていたので、今回は意味のあるものにならなかった。しかし、例えば5兆円を予定して保険を組んでいたら、その保険料は極端に高額となり、原子力発電は経済的に成り立たなくなっていたであろう。保険には経済的な限界があるのである。
そこで、第2の条件としての社会保障である。原子力発電が政策であり国民の選択である以上、原子力事業者の単独の力では負担しきれず、保険でも賄いきれないところは、社会保障として、つまりは政府負担(要は国民負担)として対応しようということである。それが、第16条支援の意味だと考えられる。
さらに第3の条件として、第3条ただし書きの「異常に巨大な天災地変」による免責があったのだが、今回の場合、著しく大規模な天災であったにもかかわらず第3条ただし書きの免責は否定された。同時に著しく大規模な天災であったが故に保険制度が十分に機能しなかった。この制度設計の穴を埋めるのは第16条支援以外にはない。
このように無過失無限責任の意味を考えれば、政府対応の問題性がみえてくる。第1に、第3条ただし書きによって東京電力を免責にすべきだったのではないか。第2に、免責を否定したのであれば、第16条支援についての政府責任の正当な果たし方を国民に提示する必要があったのではないか。
免責の可否については様々な視点から論じ得るのだが、私は社会的公正さに関する良識の働きを重視したい。事故原因者である東京電力は、被害を直視したとき、社会的公正を直観し良識を働かせることで賠償責任を認めたのである。政府からの圧力があったにせよ、また法律的に免責の可能性が残るにもかかわらず、補償されるべきと観念された損害を前にして、敢えて免責の主張を封印したことについては、東京電力の良識を評価したいし、そのことで政府を批判する気もない。
私が問題としたいのは、第16条支援のあり方である。政府の方法では、東京電力が政府から受けた支援資金の弁済が前提になっており、要は賠償費用の全額を東京電力が負担するのである。しかし、第16条支援には社会保障機能があるべきであり、原子力損害補償費用についての政府と東京電力との間に公正な負担配分があるべきなのだ。
法律は民間企業による原子力事業を前提にしている。しかし、今回の事故が明瞭に示したように、原子力事業には普通の経済計算にのり得ない、従って民間の保険では対応し得ない巨大な不確実性がある。そこを社会保障の仕組みで補完しない限り、独立した民間企業が行うものとしての原子力事業は成り立たない。だからこそ、第16条の政府支援があるのだ。
私は、原子力事業者の経営の独立を守りつつ電気事業継続のための資金調達の道を確保することをもって、第16条支援の目的と考える。東京電力には損害賠償を履行する原資が必要であるが、原資は電気事業からしか生まれないのだから、賠償履行と電気事業継続は表裏一体である。巨額な資本を必要とする電気事業の継続のためには、資金調達ができなければならない。ところが、今の東京電力に資金調達は不可能である。ここが政府の出番なのだ。
国有化も法的整理も不当
政府は国有化をもって東京電力の資金調達力の回復を図ろうとしている。確かに政府からの資本投入と国有化によって銀行融資が受けやすくなるし、社債発行も可能になるかもしれない。しかし、法律は民間事業者の独立を前提とした支援を想定していたはずである。国有化という異常な方法は、想定された支援方法の逸脱である。国有化は支援ではなく支配であろう。