消防器材工場から香港企業との
合弁事業まで、国は出資していない
馮永明は74年から勤務していた伊春市第二経済局の職を辞し、80年1月に倒産の危機にあった同市消防器材工場を再建して、家具工場を立ち上げた。
73年に設立された消防器材工場は、元々、伊春市公安局が職員の子弟の就職のためにつくったと言われ、「青年点」(青年の場所)や「はしご場」(はしごを作る場所)と呼ばれていた。
創業当初は、かじ屋と大工の2人が家から木材を持ってきて製品を作るような有様だった。80歳を過ぎた同工場の元職人によると、国からの出資はなく、個人的な関係を通じて金を借りることはあったが、すべてはしごの生産に投じ、完済している。馮永明は工場の職員たちに推薦され、民主的な選挙を経て工場長に就任した。
85年、馮永明はハルビン市の商談会に参加し、外資導入のチャンスを狙っていた。そこで関係のできた「香港福仕公司」と合資協定に合意し、合弁会社の「伊春光明家具有限公司」を設立した。この香港企業との合弁締結において、中国側パートナーとなったのは、85年に消防器材工場の一部を独立させた「伊春市木工制品工業公司」(以下、「木工公司」と省略)であった。
この「木工公司」は中国側と香港側の条件を合わせる関係上、便宜的に立ち上げられた。同公司は登記時、馮永明が同社銀行口座に8000元入金している。それは実質的な資本金であり、馮永明が「木工公司」の出資者だとみなすことができる。
しかし、当時の財務担当者のミスで、この8000元は「投資」の欄に記載されなかった。合弁事業で「木工公司」は340万元を出資し、その他に黒龍江省政府から受けた222万元の融資と16万5355元の財政補助借款はすべて返済を完了した。
以上説明してきた合弁事業設立に関わる財産や債務の譲渡及び出資については、会計事務所2社が出した会計監査報告にも同様の内容が記載されている。つまり、合弁事業は銀行と財政融資を受けて行われており、国からは資本金としての投入はないことを証明している。
馮永明は逮捕され、8200万株は国資委に
合弁期間が満期になると、中国側は香港側の株式を全て買い取り、合弁事業を解消した。96年4月24日、深センの株式市場に上場し、98年には、株式会社として黒龍江省国家経済体制改革委員会の批准を経た。会社名は「光明集団株式有限公司」、1株1元の価格で、総発行数は2億2200万株、「光明集団建築安装公司」(以下、「建築安装公司」)が8200万株(36.9%)、法人が500万株(2.3%)、個人が13500万株(60.8%)を保有した。
「建築安装公司」は馮永明も出資する民営企業である。06年に「建築安装公司」はこの8200万株を馮永明個人が経営する「山東寧津県聖泉禾実業投資有限公司」(以下、「聖泉禾公司」)に譲渡した。
A記者によると、馮永明はこの8200万株を市政府に譲渡するよう迫られ続けていたという。「光明集団」が消防器材工場という公的な性質を持つ工場から発展したことや、馮永明が79年まで第二経済局で働いていたこともあり、さまざまな形で利益を分配するよう言われたのだろう。しかし、馮永明は、「光明集団」も「聖泉禾公司」も民営企業であり、公的な組織や関係者に利益が渡れば贈賄罪で訴えられかねないと考え、そうした要求には応じなかった。
民営企業なのに度重なる圧力
しかし、度重なる圧力に屈し、04年7月19日、馮永明は8200万株を無条件で市政府に譲渡することを申し出た。06年、「光明集団」は「建築安装公司」の持っていた8200万株を国有資産として認定し、07年2月28日までに登記変更手続きを行うという内容の契約書を伊春市政府との間で交わした。
ところが、伊春市政府も「光明集団」もこの株式譲渡に関わる権限を有していないとされ、後に、この契約は無効になった。
そのような状況のなか、馮永明は08年9月25日、逮捕された。そして、同年12月12日には、馮永明不在のまま、「光明集団」と伊春市国有資産監督管理委員会(国資委)は、民事調停を通じて、「光明集団」の8200万株を国資委に「給付」することで合意したという。