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2020年3月18日

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出井康博 (いでい・やすひろ)

ジャーナリスト

1965年、岡山県に生まれる。ジャーナリスト。早稲田大学政治経済学部卒業。英字紙「ニッケイ・ウイークリー」記者、米国黒人問題専門のシンクタンク「政治経済研究ジョイント・センター」(ワシントンDC)客員研究員を経て、フリー。著書には、『移民クライシス 偽装留学生、奴隷労働の最前線』(角川新書)、『ルポ ニッポン絶望工場』(講談社+α新書)、『長寿大国の虚構 外国人介護士の現場を追う』(新潮社)、『黒人に最も愛され、FBIに最も恐れられた日本人』(講談社+α文庫)などがある。

 なぜ、ブータン人留学生たちの就職先が「愛媛」だったのかーー。

 ブータン人と愛媛を結びつけた女性がいる。一般社団法人「Nature & Humans Japan」代表理事で、長年にわたって途上国での支援活動に取り組んでいる菅由美子さん(59歳)だ。

 菅さんは2017年、環境問題に関する調査でブータン訪問した。その際、ブータン政府が日本への留学制度を始めようとしていることを知る。調査を手伝ってくれたインターンにも、制度に応募していた若者がいた。その後、来日した彼らを通じ、留学生たちが日本で苦しんでいる実態を目の当たりにすることになった。

 「せっかく日本にやってきたのに、借金返済のために徹夜で働く毎日を送っている。あまりにもかわいそうで、少しでも力になれればと考えたのです」

 留学生たちは孤立無援の状況だった。ブータンの斡旋業者と提携し、留学生のサポート役を標榜していた日本側のエージェントはいる。だが、エージェントは業者と組み、留学生を自らのビジネスに利用しているだけだった。そんな状況を菅さんは放っておけなかった。

 18年4月、来日中のツェリン・トブゲイ首相(当時)がブータン人留学生たちと東京・帝国ホテルで懇談会を開いた際には、会場へと押しかけた。そして会場から首相に対し、留学生たちの窮状を訴えた。

 本来は留学生が自ら訴えるべき場である。しかし、08年に絶対君主制から立憲君主制へと移行したばかりのブータンでは、民主主義が根づいているとは言い難い。政府には日本よりもずっと強い権限がある。その政府が進めた留学制度への不満を述べれば、どんな仕打ちがあるか知れない。そうした思いで黙り込んでいた留学生の心中を、菅さんが代弁したのだった。だから会場の留学生たちは彼女に拍手を送った。

 だが、ブータン政府は留学生を救おうとはしなかった。逆に日本への留学制度の「成功」をアピールし続けた。同制度は、トブゲイ政権が失業対策として始めた看板政策だ。従って簡単に「失敗」は認められない。

 菅さんは留学生たちの支援に奔走した。彼らが在籍する日本語学校は全国20以上を数えたが、教育などそっちのけで、学費の徴収にしか興味のない学校も多かった。支払いが滞ると、母国への強制送還を命じるような日本語学校もあった。そんな学校に出向いての交渉も菅さんが担った。

 その間にも、留学生たちは不幸に襲われ続けた。慣れない夜勤アルバイトによって、心身を病んで帰国する者も相次いだ。筆者は当時から留学生たちを取材していたが、彼らの表情は皆、暗かった。

 日本で「簡単にできる」と宣伝されていた大学院への進学や就職ができる見込みはない。かといって、ブータンに戻っても仕事はなく、留学時に背負った借金だけが残ってしまう。彼らの人生は、日本への留学で台無しになってしまったのだ。

一人の青年の自殺

 流れが変わったのは、18年12月に福岡で起きたブータン人青年の自殺だった。政府に遠慮し、留学制度の問題に目を背けていた現地メディアも、やっと留学生たちの窮状を報じ始めた。留学生の親たちは「被害者の会」を結成し、政府に救済を求める活動も開始した。

 この頃には、トブゲイ首相が総選挙で敗北し、新政権が誕生していた。そのことも影響し、ブータン政府も問題追求に乗り出していく。そして留学制度をめぐる不正が次々と明らかとなった。結果、政府高官の起訴や留学斡旋業者の逮捕にも至った。

19年2月、ブータン人留学生「被害者の会」代表と東京で開いた記者会見

 一方で、菅さんは翌19年2月には「被害者の会」代表らをブータンから招き、東京などで記者会見も行った。だが、ブータン人留学生たちの問題を報じた日本のメディアは多くない。現地では、政権を揺るがす大スキャンダルになっていたというのにだ。不正まみれの留学制度にお墨つきを与え、ビザを発給した在ブータン日本大使館、留学生たちを食い物にした日本側エージェントや日本語学校の責任にしろ、現在まで問題にはなっていない。

 その陰で、同年3月には多くのブータン人留学生が日本語学校を卒業し、日本から去っていった。日本に残り、専門学校などに進学したブータン人もいる。何も彼らが優秀だったわけではない。留学生に許される「週28時間以内」を超えて働いた結果、進学に十分な金があっただけだ。学費さえ払えば、日本語能力など問われず入学できる専門学校や大学はいくらでもある。

 しかし、進学できた留学生たちにも不幸が続く。ビザを更新する際、法務省入管当局に日本語学校当時の違法就労を指摘され、更新不許可となるケースが相次いだのだ。進学先の学校に支払った1年分の学費も返却されず、ブータンへの帰国を余儀なくされた留学生も少なくない。

 就職先が見つかったブータン人もいた。就職斡旋業者に金を払ってのことである。なかには業者に「40万円」もの手数料を支払ったケースもある。業者が求職者から手数料を取るのは違法だが、窮地に立たされたブータン人たちはつけ込まれた。

 業者から「ホテルで働ける」と誘われ手数料を払った後、弁当の製造工場に斡旋された者もいる。自国の政府によって日本へ「留学生」として売り飛ばされたブータンの若者たちは、日本での進学や就職でも食い物になったのである。

 そんな中、20人近い留学生を愛媛へと導いたのが菅さんだった。彼女は18年7月に「西日本豪雨」が起きた際、愛媛で被災地の支援活動に携わった。その後、活動を通じて知り合った現地の農業関係者に対し、ブータン人の採用を依頼したのだ。

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