2024年11月22日(金)

Wedge REPORT

2020年4月3日

〝海外留学〟を果たすソラチエース

 活躍の場を見いだせないまま、ソラチエースは1994年にアメリカに渡る。日本のプロ野球で芽が出なかった選手が、大リーグに挑戦するように。

 キーマンになったのは、糸賀裕。80年代、チェコのザーツホップがウイルス被害に遭っていたとき、サッポロの独自技術によりこれを救ったが、支援を主導したことで知られる研究者だ。個性的なアロマホップであるソラチエースの可能性を信じていた糸賀は、人的なネットワークによりオレゴン州立大学に持ち込んだのだった。

 しかし、すぐに認められたわけではない。渡米から8年後の2002年、ワシントン州のホップ農家のマネージャー、ダレン・ガメッシュが埋もれていたソラチエースを見出したのである。それから5年ほどが経過し、ガメッシュは07年頃から全米のクラフトビールメーカーにソラチエースを紹介する。すると、上質な苦みと強い香りの高苦味アロマホップとして、有力なクラフトビールメーカーが採用していく。

 その一つが、ニューヨークのブルックリン・ブルワリーであり、同社でブリューマスター(醸造責任者)を務めるギャレット・オリバーにより、その個性溢れる日本発・アメリカ産のホップは世界へと広まっていった。「ブルックリン ソラチエース」という製品を通してである。

 ソラチエースはこうして、サッポロ社内では社員でさえ知らないのに、欧米のクラフトビール関係者なら誰でもが知る存在となっていく。

ホップでつながるキリンとサッポロ

 16年にキリンはブルックリンと資本提携(『クラフトビールは日本のモノ作りを変えるのか』参照)。18年10月、日本国内でキリンとブルックリンの合弁会社が「ブルックリン ソラチエース」を北海道で先行発売し、翌19年2月には全国発売に切りかえた。

 サッポロは19年4月から、「イノベーティブブリュワー ソラチ1984」を発売した。いずれの商品も、アメリカ産ソラチエースが使用されている。

 19年9月には、サッポロとキリンはソラチエース誕生35周年を祝うイベント(12日間)を共催する。イベントそのものは、新橋にあるサッポロのビアレストランと、銀座にあるキリンの店舗で、このホップを使った二つのビールを、提供する食事と絡めて盛り上げるという内容。イベントの中身そのものよりも、日頃はライバル関係にある両者が、タッグを組んだ意義が大きかった。

 実は、現場の技術者やマーケッター同士ではそれなりに交流が昔からあった。

 特に、07年入社の新井と、キリンの醸造家である田山智宏(『キリンがクラフトビールにかける思いと狙い』に登場・87年入社)は、年齢こそ20歳ほど違うが、大学と大学院がともに東大農学部の同窓。

 「ソラチエースをともに使うのだから、一緒に何かやりたいですね」。こんな風に酒の席でどうやら新井が田山に向かい切り出したのが、きっかけ。両者のほかのメンバーも盛り上がったようだが、ここからイベントに至るまでわずか一カ月だったそうだ。

 急きょ、新井は社長の高島英也に説明する。

「面白そうだが、リスクはないのか」

「ありません」

「それなら、やったらいい」

 黒ラベルVS一番搾り、といった対立構造が、ソラチエースにはない。「クラフトビール」の看板を一度下ろしてしまったサッポロだが、クラフト的な分野ではライバルとも協調しているのだ。

 「ソラチ1984」をクラフトビールとは表現してはいないが、現実にはクラフトビールに近い。何より、ホップを開発したのはサッポロ自身である。

 実は空知産のソラチエースも、自社農場でほんの少量だが生産している。

 ワインでいうテノワール(畑などの環境)から手がけている格好だが、実は同じような個性的なホップを全部で16種類もっている。自社農場のほか、北海道で四軒だけとなった契約農家で栽培しているのだ。


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