米国のホームブルーイング合法化を狙った
ここまではソラチエース側からの物語(ストーリー)ではあるが、一方で、日本原産の個性的なホップの使用に踏み切ったアメリカのクラフトビール側にはどんな事情があったのか。
アメリカのクラフトビールのパイオニアは、サンフランシスコのアンカー・ブルーイング社と言われている。1896年にドイツ人醸造家によって創業(前身は1971年創業)。禁酒法(1920年~33年)や火災などを乗り越えたものの、経営危機に陥ってしまい1965年にフリッツ・ルイス・メイタグ3世に買収される。洗濯機メーカーの創業者の孫でもあるメイタグこそが、米クラフトビールのパイオニア的な存在だ。
バドワイザーやクアーズなどは、いわゆるライトラガーのピルスナーであり、何よりコーンなどの副原料を使っていた。これに対し、メイタグのアンカー社だけがオールモルト、すなわち麦芽100%ビールだったのだ。
商品はフラッグシップでトーストした麦の甘みが特徴のアンカースチーム、ダークエールのアンカーポーター、インディアンペールエール(IPA)の先駆け的なホップをふんだんに使ったエール、リバティエールなど。この3つは、アンカー社を17年に買収したサッポロが20年3月から日本国内で販売を始めている。
アンカーに牽引される形で、個性を売り物とするクラフトビールが勃興していくのだが、それだけはなかった。70年代には二つの法改正が、クラフトビールそのものの追い風になる。
一つは、76年の小規模生産者に対する減税。当時はクラフトビールの醸造所は50社もなかったが、年間生産量が6万バレル(1バレルは約117.3リットル)未満の生産者に対し、バレル当たり9ドル課していた酒税を2ドル減額させた。大手は18ドルに引き上げられたが、小規模生産者は7ドルとなったのだ。
もう一つは、79年2月のホームブルーイング(家庭でのビール製造)解禁だった。禁酒法の名残から違法とされていたホームブルーイングが、合法化されたのである。
AP通信の元記者で中東特派員をしていたスティーブ・ヒンディは、自宅でビールをつくるホームブルワーだった。ヒンディがトム・ポッターとともに、ブルックリン・ブルワリーを創業したのは1988年。当時荒廃していたブルックリンで起業したのは、「地価が安かったから」と17年の来日時にヒンディ自身が語っていた。
二つの法改正後の80年代前半から90年代前半にかけて、クラフトビールメーカーは一気に増える。メイタグがクラフトの第一世代なら、ブルワーから起業したヒンディらは第二世代という位置づけだろう。ベルギータイプがあったり、ホップをふんだんに使うIPAが注目されたり、クラフトビールの幅は広がっていった。
どうやらそこに目をつけたのが、サッポロの糸賀だった。アメリカに有望なホップの苗を送り込んだのだから。ところがだ、96年から米クラフトビールは失速してしまう。急成長の反動(つまりはクラフトバブルの崩壊)、さらには大手による流通への圧力があったことなどが、その原因だった。
バドワイザーで知られる当時のアンハイザー・ブッシュ(現在のアンハイザー・ブッシュ・インベブ=ABインベブ)を率いたオーガスト・ブッシュ3世は、それまでの静観姿勢を一転させ、クラフトビールを封じ込めるように強烈に動いた。