美大ではなく、筑波大の芸術群を目指す
「美術予備校では1位から100位まで絵の順位を決められます。私は絵が好きだったからこそ耐えきれず、17歳で美術への道を諦めました。そこで、デザインだったらアートと企画の両方で人の心を動かせるのではないかと思い、広告の仕事に就きたいと考えるようになりました。ただ、総合職とアートディレクション職のどちらで志望すべきかわからない。
そのことを進路相談で話したら、担任の先生が筑波大学芸術専門学群デザイン専攻の存在を教えてくださいました。総合大学の中のデザイン学部だから、幅広く学びながら将来を考えられるであろうこと。そして、美大へ反対する母の説得もできるのではないかと考えてくださったのです。
それがきっかけで、筑波大の芸専を目指すようになりました。美術系の学部は絵と勉強、両方の試験があります。絵を美術予備校で学ぶかたわら、センター試験の対策は渋渋のみで何とかなりました。授業と補講がしっかりしていますし、センターでどの教科を選択すべきかといった受験テクニックも先生や友達から教えてもらえました。
同級生は、難関私大へ進む子が多かった気がします。東大へ進学する子は多くなかった印象です」
それが今では、「高3生の3人に1人が東大に出願する」(副校長)、超進学校にシフトアップ。私が渋渋の授業を最初に取材したのも、内田さんが在校中の15年ほど前だった。だが、当時から確かにあった、みんなで相談して決め、ぐるぐる突進していく感は変わらない。
いや、久々に授業を取材すると、むしろ自調自考マインドは高まっている。
内田さんのように、いったんは大手企業に就職しても、我が道を往こうと独立し、起業したりフリーランスとなったりと、力強い若者を多く輩出しているのが渋渋だ。いったんは絵筆を措いていた内田さんだが、20代半ばを過ぎたある日、さる画廊の展示をたまたま観て、目の覚める思いがした。そこには同じ20代の画家の作品が展示されていた。自分が諦めた道を必死に歩む彼らの生き様が垣間見えた。そこでもう一度挑戦しようと、再び絵を描き始めたという。
「会社の仕事にやり甲斐がなかったわけではありません。でも、夢を見すぎていたんですね。企画からディレクション、ライティングまでなんでもやって、平日は働き尽くめで、土日は40時間寝る生活でした。絵は好きだからこそ仕事にしてはいけない、他人の評価に振り回されたくないと辞めたのに、自分の喜びや苦しみ、あるいは疑問を誰かに伝えるには、絵しかないと思うようになった。
中高の友は私の作品を見てくれているみたいで、Yohji Yamamotoさんのパリコレに絵が登場した時には、『学校でずっと絵描いてたもんね。いつかやってくれると思っていたよ!』とメールをくれた子がいました。思い返せば、在校時に体育祭で着るTシャツのデザインを頼んでくれた子もいました。6年間一緒ですからね、それぞれの得意分野は今でもわかりますよ。
それから高2の文化祭では、クラスで『ウェストサイド・ストーリー』を上演しましたが、大道具で私も参加しました。全体の時間や場所の制約があって、あのスケールの大きな作品を58分に短縮しなくちゃならないんです。だから装置や衣装も、みんなでアイデアを出し合って、どう抽象化できるか何度もテストするんですね。他の年の文化祭では、(ビートたけし版の)『座頭市』の下駄タップをみんなで踊ったこともありましたね」
観てもいない舞台の興奮が眼前にちらついた気がした。内田さんが手探りで自分を探していた時期、周囲にいた学友が知らぬうちに“篝火”となっていた。肌に合わない就職をし、一度は自分を見失いかけたが、ひたむきに画業に打ち込むうち、篝火の明るさと温かみに支えられてもいた。「卒業して10年以上経っても、お互いが元気でいるかそっと気にかけあっているし、会うと励まされる」のだという。
しかし、内田さんの繊細で妖美な画風からは、かくも強い母校愛の持ち主とは想像もつかなかった。内田さんは自身の作品を自己の「告白」だと語る。もし母校に作品を寄贈するなら、どんな絵を描くのだろう。
Wedge3月号「名門校、未来への学び」では、現在の渋谷教育学園渋谷高校の取り組みを紹介しています。
筑波大学芸術専門学群卒業。Yohji Yamamotoと合作した服がパリコレクションで発表され世界各国で発売。写真家レスリー・キーのフォトブックに作品掲載。FIGARO japonで齊藤工とコラボレーション。VOGUE JAPAN、GQ JAPAN掲載。小説「邪し魔」「恋塚」に装画提供。画集「美人画ボーダレス」「写実絵画の麗しき女性像」掲載。BSフジ「ブレイク前夜」出演。第2回ホキ美術館大賞入選。幽霊画展2014大賞受賞。画廊、百貨店、国内外アートフェアなど展示多数。
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