2022年12月5日(月)

食の安全 常識・非常識

2020年8月7日

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松永和紀 (まつなが・わき)

科学ジャーナリスト

1963年生まれ。89年、京都大学大学院農学研究科修士課程修了(農芸化学専攻)。毎日新聞社に記者として10年間勤めたのち、フリーの科学ジャーナリストに。主な著書は『踊る「食の安全」 農薬から見える日本の食卓』(家の光協会)、『食の安全と環境 「気分のエコ」にはだまされない』(日本評論社)、『効かない健康食品 危ない天然・自然』(光文社新書)など。『メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学』(同)で科学ジャーナリスト賞受賞。2021年7月より内閣府食品安全委員会委員(非常勤、リスクコミュニケーション担当)。(記事の内容は、所属する組織の見解を示すものではなく、ジャーナリスト個人としての意見に基づきます)

林原にとっては賭けだった

 こう説明すると、「どうせ、林原が巨額を資金提供して反論を書かせたのだろう」という声が聞こえてきそう。しかし、そんなことはありません。EBioMedicineに掲載された論文では、研究が英国の国立医療研究機構の助成で行われ、大腸モデル実験系の試験のみ林原の資金提供があったことが明記されています。

 林原によると、2018年にネイチャー論文が出た直後、社として反論研究をどのように行ったらよいかをリサーチする中で、既に論文に疑問を呈するコメントを出していたウィルコックス教授を知ったそうです。教授は、この大腸モデル実験系による腸内細菌研究で世界に知られており、意見交換する中で、教授の方から「われわれが試験をしてみましょう」という話が出たとのこと。

今回のインタビューはZoomで行った。Wilcox教授と意見交換し研究助成へと進めた東山隆信さん

 林原にしてみれば、もし、教授の大腸モデル実験系でトレハロースによりCD菌が盛んに増殖し毒性物質を産生したら、「トレハロースは危険」説の決定的な根拠となります。教授と協議した林原研究部門開発部の東山隆信さんは「賭けだった」と振り返りますが、試験を依頼したそうです。

 ただし、この実験系の試験はお金がかかるため、林原が費用、数百万円をサポートしました。1時間ほどの講演料が数百万円というケースもあるのが医学の世界。この研究助成は常識的に見て多いとは言えません。東山さんは「トレハロースは安全という結果が出る、と信じていた」と話しますが、どちらの結果が出るかわからず、場合によってはトレハロースの販売を継続できなくなるかもしれない試験に数百万円を提供するとは、思い切ったものです。林原は、研究費を一部助成しただけで研究の内容にはいっさい口出ししていないため、林原の研究者は論文の共著者とはなっていません。

 一方、アメリカからの論文は、林原がまったく関知しない中で行われ公表されました。アメリカの国立衛生研究所の助成で行われ、林原のサポートはありません。

 強毒化したCD菌の流行は日本では起きていませんが、欧米では依然として重要な課題です。そのためかなりの公的資金が提供されて研究が幅広く行われており、その中で問題のある論文がその後の研究により否定されてゆく、という科学的な道筋をたどったのです。

「危ない」という古い情報が更新されない

一般の消費者などへ科学的な情報を届けることの難しさを語るマーケティング部の姫井佐恵部長

 トレハロースは林原の最大のヒット商品です。そんなものが突然、謂れ無い疑いをかけられたら。しかも、ネイチャーという大舞台で。企業人ならだれでも、我が身に起きたらと想像するだけでぞっとする事態です。林原マーケティング部の姫井佐恵部長は、2年半にわたって対処に奔走し続ける日々だった、と振り返ります。そして、終わりはまだ見えません。

 論文はデータベースに収められ、科学者は検索し論文を読んで知見を集積し理解を更新してゆきます。ところが、一般社会、消費者の認識はスムーズには更新されません。ここに、林原の苦難があるのです。姫井さんは「消費者やトレハロースが入った食品を扱う小売店の社員など、学者以外の人たちに情報が届かない」と嘆きます。

 まず、否定する論文2報は、日本でも欧米でもメディアにはほとんど取り上げられませんでした。「危ない」というネガティブ情報がメディアにとって商品価値が高いのです。一方、「問題なかった」は国や企業等がこれまで主張してきたことであり、それが学術的に裏付けられた、というだけなので、ニュースとしての新味がありません。

 SNSでも、「危ない」は拡散しやすく、「大丈夫」「安全」というポジティブ情報は広がりにくいことがさまざまな調査で確認されています。ポジティブ情報は、もう気にしなくてよい、ということなので、わざわざ記憶しようとか人に伝えようという意思が働きにくく、すぐに忘れ去られます。

新規顧客を逃したかもしれない

 姫井さんは、「国内では取引相手が理解してくれたせいか、ネイチャー論文の売り上げへの影響はなかった。欧米ではそもそも、食品素材として十分に認知されていたとは言えず、売り上げへの影響の判断は難しい。しかし、これから使ってみようか、という新規の顧客を逃した面はあるのではないか」と言います。

2019年11月、アメリカThe Culinary Institute Of America で12人の有名シェフを集めてトレハロースセミナーを開催。安全性に関する質問が相次いだ

 米国のある大手スーパーマーケットが扱う食品の「ネガティブリスト」(原材料や添加物として使ってはいけないリスト)にトレハロースが入ってしまった事例があります。アジアの飲料メーカーが製造するココナッツジュースの取引が、トレハロースの使用を理由に頓挫しました。林原社員が、リストからトレハロースを外すように働きかけようとしましたが、スーパー担当者は会ってもくれませんでした。

 また、米国で非常に有名な料理学校、The Culinary Institute Of Americaでのエピソードも印象的です。米国で昨年11月、3日間にわたってワークショップを開き、12人の有名シェフが参加しました。トレハロースの効果、使い方などが情報提供されたのですが、安全性に関する質問が相次ぎました。ほとんどのシェフがネイチャーの論文を気にしており、一方、否定する論文が出ていることは知りませんでした。

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