食の安全 常識・非常識

2020年8月7日

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松永和紀 (まつなが・わき)

科学ジャーナリスト

1963年生まれ。89年、京都大学大学院農学研究科修士課程修了(農芸化学専攻)。毎日新聞社に記者として10年間勤めたのち、フリーの科学ジャーナリストに。主な著書は『踊る「食の安全」 農薬から見える日本の食卓』(家の光協会)、『食の安全と環境 「気分のエコ」にはだまされない』(日本評論社)、『効かない健康食品 危ない天然・自然』(光文社新書)など。『メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学』(同)で科学ジャーナリスト賞受賞。「第三者委員会報告書格付け委員会」にも加わり、企業の第三者報告書にも目を光らせている。

 2018年2月、本欄に「トレハロース問題の真相」と題する記事を書きました。覚えておられるでしょうか?

 科学誌ネイチャー(Nature)に、トレハロースが感染症流行の深刻な原因となっている、とする論文が掲載され、欧米でも日本でも話題となりました。トレハロースは日本の企業、(株)林原が開発した食品添加物です。しかし、論文をしっかりと読み林原の主張と突き合わせると数々の矛盾が見えてきます。私は記事で、「論文には多数の問題があり、感染症の原因と言えるような根拠は崩れ去っている」と書きました。

 その後、ネイチャーの論文内容を科学的に否定する論文が二つ出ました。三つを読み比べ、私は学術的には決着がついた、と考えます。しかし、世間の評判は異なります。“危ない”という情報はネイチャーという権威を得て広く早く拡散し浸透し、“問題なかった”という情報は広がりません。

トレハロースは天然にある糖で自然な甘さ。用いると食感が向上したり硬くなりにくくなるなどの効果があるため、日本では多くの加工食品で使われている

 この7月20日にも、アメリカの市民団体コンシューマーリポーツ(Consumer reports)が「避けるべき6つの食品添加物」という記事を公開し、トレハロースを挙げました。根拠はネイチャーの論文。歴史ある有名市民団体ですら情報を更新せず、古い“危ない”情報をいまだに広げているのです。

 日本でも未だ、SNS等で同様の古い情報が流れます。この問題はおそらく、林原、トレハロースだから起きるものではなく、どの企業も、とくに海外でのビジネス展開を狙う企業なら遭遇しうる風評被害です。

 学術的な経緯、そして今、林原がどのように風評と闘っているのか、お伝えします。

2018年、ネイチャーが問題論文を掲載

トレハロースを用いた和菓子。もちや団子がすぐに硬くならず、翌日も柔らかいまま食べられる。多くの和菓子店で用いられている

 トレハロースは自然界に存在する糖類でとくにマッシュルームなどのきのこに多く含まれています。しかし、抽出すると高価となり実用的ではありませんでした。ところが1990年代はじめ、林原の研究者がでんぷんからトレハロースを生成する微生物を土壌から見つけたのです。関係する酵素を同定し安価に量産できる製法を確立しました。国内では1995年から食品添加物として販売され、アメリカでも2000年にGRAS(Generally Recognized As Safe:一般的に安全な物質)として認められ、EUでも2001年に承認されています。

 高い保水力があり、でんぷんの老化防止やたんぱく質の変性防止に用いられています。日本ではさまざまな食品の加工に用いられており、和菓子や洋菓子、かまぼこなどの表示でおなじみです。例えば、もち菓子や団子がすぐに硬くならずに翌日も柔らかく食べられる。それはトレハロースの力です。

 ところが、アメリカ・ベイラー医科大(Baylor College of Medicine)の研究者らが2018年1月、ネイチャーで「食事からのトレハロース摂取がクロストリジウム-ディフィシレ菌(Clostridium difficile、以下CD菌)の強毒化につながっている」とする論文を発表しました。CD菌は人の体の常在菌ですが2000年代に入ってから欧米で、強毒化したタイプが流行するようになりました。アメリカでは年間に50万人の患者が発生している、とされています。論文は、強毒タイプのCD菌は遺伝子の変異によってトレハロースを代謝し栄養源にできるようになっていると主張。マウスを用いた実験と考察も踏まえトレハロースの使用が問題だ、と指摘しています。

 菌が強毒化! しかも添加物で!! というわけで、インパクトのある内容を多くのメディアが報道し、SNSでも情報が広がりました。

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