二つの論文がネイチャー論文の主張を否定
実のところ、CD菌のアウトブレークが目立った2000年代は、欧米では林原のトレハロースはあまり売れておらず、林原の特許技術を用いてトレハロースを製造販売している企業もなかったのです。新規食品として販売がスタートしたのですからすぐに大量に使われ始めるわけがありません。
林原が販売する量から計算した米国人1人あたりのトレハロース摂取量は、ふだんの食事の中でマッシュルームやパン、ビールなどからとる天然由来のトレハロースの100分の1程度でした。これでは、強毒化が添加するトレハロースのせいとはとても言えません。ほかにも、論文にはさまざまな不備が目立ちました。当時、林原の社員は「突然、まったく予想もしなかったところから隕石が降ってきた」と言っていました。
林原は、日本国内ではすぐに取引相手である食品企業等に説明し理解を得ました。これまでのデータを基に、反論をウェブサイトにも出しました。その結果、日本では少し話題になりましたが、あっという間に沈静化しました。しかし、欧米では英語での情報発信が遅れたこともあり、林原の主張は広がりませんでした。
ただし、科学者の間では当初から「あの論文は問題がある」とみられていたようです。1年あまり後の2019年4月、否定する論文がイギリスの研究グループから出ました。また、2020年1月にはアメリカのグループからも出ました。
遺伝子変異は数千年前からあった
2019年4月の論文はEBioMedicineに掲載されています。イギリスのリーズ大(University of Leeds)のウィルコックス(Mark H.Wilcox)教授らが、オックスフォード大(University of Oxford)の研究者と共にまとめたものです。
主な内容は次の通りです。
(1) ネイチャー論文が、「トレハロースが引き起こしCD菌の強毒化につながった」とみた遺伝子の変異は、数千年前からCD菌に広く存在する一般的な遺伝子変異である
(2) ネイチャー論文は、CD菌が持つ4つのトレハロース代謝遺伝子が強毒化に影響した、と主張していたが、患者181人の菌を詳しく遺伝子解析したところ、菌に4つの遺伝子があることと患者の死亡率との間に関係がなかった。つまり、重症化と関連しない。
(3) 製造されたトレハロースのアメリカやイギリス、ドイツなどへの輸入量は、自然の食品からの摂取量に比べて少ない
(4) リーズ大が持つ大腸のモデル実験系で、強毒化したCD菌が腸内細菌として増殖しうるかどうか調べたところ、トレハロース添加の場合にもぶどう糖や塩分を添加した場合と同程度の増殖しか示さなかった。また、トレハロース添加では毒素を産生しなかった。
一方、2020年1月にOpen Forum Infectious Diseasesに公表された論文はミシガン大(University of Michigan)の研究チームによるもの。2010年〜13年に入院した1114人の患者の保持していた菌を解析したところ、患者の重症化と、ネイチャー論文が見出したトレハロースの代謝にかかわる遺伝子変異との間に関係を見出せなかった、というものです。この論文も、「研究結果は、トレハロースの利用がCD菌の強毒化につながったという説を支持しない」と明確に否定しています。