2024年11月22日(金)

日本人秘書が明かす李登輝元総統の知られざる素顔

2020年10月17日

式典の空気が一瞬にして変わったワケ

 礼拝当日、空は真夏のように澄みきり気温も高かった。憲兵隊の白バイに先導された車列は、先に到着していた蔡英文総統らに出迎えられ、礼拝堂に到着した。李登輝は身長が180センチ以上ある偉丈夫で、私が何か耳打ちしようとするとちょっと背伸びをするほどだったが、孫娘に抱かれた遺骨を見て、改めて「小さくなられてしまった」というのが実感だった。

 礼拝に先立ち、蔡英文総統から家族へ「褒揚令」が贈られた。「褒揚令」とは、国家に対してとりわけ偉大な貢献があった人に授けられる、いわば勲章のようなものだ。「褒揚令」を贈る理由として、6度にわたる憲法改正、動員戡乱時期臨時条款の廃止、万年国会の改選、総統直接選挙の実現、台湾の地位の確立、「静かな革命」と呼ばれる自由民主化の実現によって「民主化の父」と称賛された、などが述べられた。

 悲しみに包まれつつも、和やかな雰囲気で進んだ礼拝の式典の空気が変わったのは、司会が次のように告げたときだった。

 「日本の安倍晋三前首相から哀悼の言葉が届いております」

 つい2週間ほど前に、体調不良によって総理を辞任する会見を開いた安倍前首相は、追悼礼拝の2日前に、総理を退任していた。安倍前首相からの哀悼の言葉が、交流協会台北事務所の泉裕泰代表(駐台湾大使に相当)によって代読され始めると、一種の引き締まったような、ピンとした空気が会場を包み込んだ。

 この空気の変化は、端的にいってしまえば「やはり李登輝はすごい」という感嘆だったのではないかと思う。つい2日前まで日本の現職総理だった人物が、李登輝の追悼礼拝の式典にメッセージを寄せている。ここでは、安倍前総理は、退任したからメッセージを贈れたのではないか、などという政治的な都合を穿って考えるのはよそう。ともかくも、出席した人々は、李登輝の日本との結びつきの強さ、日本における存在の大きさを改めて感じ、あるいは改めて認識したのだろう、と思う。それほどまでに李登輝と日本の関係は特別だった。

 礼拝も終わりに近づき、李登輝の来し方を振り返るビデオが流された。そのビデオの最後に流されたのは、2012年に、蔡英文が初めて総統選挙に挑戦した投票日前夜の集会の模様だった。

 私もこの日のことはよく覚えている。李登輝はそのわずか2カ月前に大腸がんの手術を受け、まだ静養中の身だった。それでも李登輝が無理をしてまで登壇したのは、蔡英文をなんとか現職の馬英九に勝たせなければ、台湾の未来が奪われるからだった。

 このときの挑戦では、結局蔡英文は敗れたが、馬英九政権は過度に台湾を中国へ接近させる事態を招いた。結果、2014年には「ひまわり学生運動」が勃発し、2016年の蔡英文政権誕生に繋がっていくのである。

 1月の雨もちらつく寒い夜だった。李登輝は蔡英文の応援演説を終えたあと、もう一度司会者にマイクを要求する。そして絞り出すような声で訴えたのだった。

 「台灣要交給你們了!(台湾のことは皆さんにまかせましたよ!)」

 つい2カ月前に大手術をして静養中の、90近い老人の、文字通り絞り出すような声色だった。

 李登輝はいつも言っていた。

 台湾にとって日本はなくてはならないが、日本にとっても台湾はなくてはならないんだ、と。だから「台湾のことはまかせた」という言葉は、日本人の私たちにも向けられた言葉だということを忘れてはならない。

 「台湾のことは皆さんにまかせましたよ!」

 この言葉こそ、李登輝の「遺言」だ。そして、この遺言を受け継いでいくことが、私と李登輝の約束なのである。

早川友久(李登輝 元台湾総統 秘書)
1977年栃木県足利市生まれで現在、台湾台北市在住。早稲田大学人間科学部卒業。大学卒業後は、金美齢事務所の秘書として活動。その後、台湾大学法律系(法学部)へ留学。台湾大学在学中に3度の李登輝訪日団スタッフを務めるなどして、メディア対応や撮影スタッフとして、李登輝チームの一員として活動。2012年より李登輝より指名を受け、李登輝総統事務所の秘書として働く。


  
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