2024年12月22日(日)

日本人秘書が明かす李登輝元総統の知られざる素顔

2020年10月17日

この連載をまとめた書籍『総統とわたしー「アジアの哲人」李登輝の一番近くにいた日本人秘書の8年間』(早川友久 著・ウェッジ)が10月20日に発売されます。

日本人秘書として8年間仕えてきた早川友久さんが明かす、李登輝元総統の「遺言」とは――?

写真:代表撮影/ロイター/アフロ

 秋晴れ、というよりは真夏が戻ってきたかの陽気だった。

 9月19日、総統府が主催する李登輝総統の追悼礼拝が行われた。

 礼拝が行われたのは淡水にある真理大学キャンパスの大礼拝堂だった。淡水は台北市北部の河口に広がる街で、日本統治時代から現在に至るまで風光明媚な観光地として人気だ。

 なぜこの場所で追悼礼拝が行われたかには理由がある。まず、李登輝も夫人の曾文恵も、この淡水の北にある三芝で生まれ育ったことだ。生家である「源興居」は現在も保存され、土地の人々の手で守られている。また、李登輝は中学時代をこの淡水の街で生活している。淡水中学で学び、寮に入っていたからだ。さらに、真理大学は李登輝の信仰と同じキリスト教長老教会系の大学で、大人数を収容できる礼拝堂を有しているということもあった。これらの理由で、淡水が会場となったのである。

 また、それとは別に、ご家族の意向もあったようだ。というのも、実は私も李登輝の口から聞いたことがあるが、人生を振り返ると一番楽しかったのは淡水中学の時代だった、というのだ。

 確かに、李登輝の人生をなぞれば、淡水中学を終えて台北高等学校へ進学したものの、時代は1940年代、戦争の足音が聞こえ始め、学校にも暗い影を落とし始めていたし、京都帝国大学では学業半ばで学徒兵に志願している。戦後は国民党独裁下の白色テロが横行する時代、息をつく暇もなかっただろう。台湾に「安心して夜眠れる」自由な社会がもたらされたのは、自身が総統として民主化を進めたからこそだった。

 そう考えると、李登輝の人生のなかで、もっとも安心して心から笑って過ごせたのがこの淡水中学の時代だったのはむべなるかなと思える。だからこそ総統退任後に李登輝事務所や群策会(現在の李登輝基金会の前身)の事務所を、台北市中心部まで多少距離があるという不便さを知りつつも淡水に置いたのだし、そうした李登輝の気持ちを汲んだ家族の意向も大きく働いたのだろう。

 礼拝会場となった真理大学には李家と親しい人々や、蔡英文総統をはじめとする五院の院長、政府関係者、各界の名士、そして日本からは森喜朗元首相や米クラック国務次官、各国大使らが出席して執り行われた。隣接する淡江中学(李登輝が通った淡水中学の後身)には、パブリックビューイングが設けられ、一般の人たちも李登輝を偲べるようになっていた。

 実は追悼礼拝の前日にも、予行演習が行われていた。李登輝が終のすみかとした故宮博物院裏手の翠山荘(李登輝邸の通称)から会場となる真理大学まで交通管制が敷かれた。台湾では、総統経験者の乗る車列が通過する場合、信号はすべてコントロールされる。だから李登輝が外出するときも赤信号で停まることはなかった。この日の車列にも同じように交通管制が敷かれたが、違うのは、車上の人が李登輝の遺骨を抱いた孫娘と家族たちに変わったことだった。


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