2024年12月23日(月)

経済の常識 VS 政策の非常識

2012年11月29日

 9月に行われた自民党の総裁選びは安倍晋三元首相が制し、大変な盛り上がりを見せた。現在は野党の党首であるが、いずれ首相になるかもしれない人を選ぶ訳だから、この3年間とは異なって盛り上がったのは当然である。日本のような議員内閣制では、選挙民は代議員を選び、代議員が首相を選ぶ。大統領制のように、選挙民が直接、国家の指導者を選ぶ訳ではない。

 首相公選制に賛同する人も多い。日本維新の会の「維新八策」にも入っている。自民党の末期から現在まで、次々と首相が選ばれてはつまらないことで能力や意志の弱さが露呈して辞めていった。それなら、国民に直接選ばせろという感情が高まって首相公選論の人気が上がったのだろう。

漢字を読めないことを
なぜ見抜けなかった

 しかし、代議員が首相を選ぶという方式には、民主主義の思想家たちの深い知恵が反映されている。民主主義の偉大な思想家たちは、民衆が、その仲間のうちから公正で思慮に富む人々を選ぶ能力のあることは信用していた。しかし、民衆が、国家権力を司る首相を正しく選ぶ能力は疑っていた。

 デイヴィド・ヒュームは、『市民の国について』(岩波文庫)で、民衆が良識ある代議員を選び、その代議員が国家権力の行使者を選ぶのが優れた仕組みであると書いている。代議員は、首相候補を身近に観察し、その能力と人格を十分に知る機会がある。これは民衆にはできないことだ。

 民衆が代議員を選び、代議員が首相を選ぶ方が優れているというのは、一見正しそうな議論であるが、日本の現実を見ると、そのように機能しているとはとうてい思えない。

 安倍晋三元首相と福田康夫元首相は、権力を維持する気力に欠けて首相の座を投げ出した。代議員には、自分たちのリーダーが権力を行使する責任感と気概をどれだけ持っているかを判断する能力が欠けていたことになる。


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