2024年11月24日(日)

「子縁」でつながる秋津地域のお父さん 

2013年1月7日

 私とワイフは「たまたまなんだけど、一戸家の真上でほんとうに良かったね!」と、話し合いました。だって、世間では「階上の子どもの音がうるさい!」とかで、いさかいになることもある時代ですからね。

 あっ、秋津保育園は、長男も含めた私の3人の子どもが卒園した保育園でもあります。

 で、二人の保育園児のお迎いには、私やワイフはもちろんですが、ときには直作おじちゃんもいそいそと行くのです。はい!

「地域で生きる」って?

 ところで、サラリーマン父さん、とくに若いお父さんが「地域で生きる」って、何でしょう。どんな意味があるのでしょうか。

 私事で恐縮ですが、私は29歳でサラリーマンをおさらばし、独立して会社を興しました。1982年1月のこと。そのころには、都心から電車で40分ほどの東京湾を埋め立てて1980年に誕生したベットタウンの秋津に住み、すでに2年がたっていました。私の家族も東京から新天地を求めての移住組でした。長女と長男はおさな子で、次男はまだ生まれていません。ワイフは専業主婦でした。

秋津まつりに手づくり山車で繰り出した「ノリノリ団」の面々。しまじいの肩に手をそえる一戸直作さん(前列左の二人)とピースする私。

 当時の私は企業戦士。興した会社の資本金には親友やワイフの家族の出資金も含まれていることや、株式会社として設立したことからの社会的責任をひしひしと感じ、いや、むしろ社長としての社会的責任を自らに課すために、あえて親友などに出資をお願いして株式会社を選んだのですが。であるがゆえに、自分に課した責任の重みを和らげたいために、モーレツに働きました。しかも、バブル期だったこともあり、働けば働くほど売り上げも収入も増えていきました。だから、会社に泊まり込み、家に帰らないこともしばしばでした。家に帰ってもごろごろと寝てばかりでした。そして、地位や収入を密やかに誇るような傲慢な人間になっていきました。まさに心もバブルっていたのです。

 そんなあるとき、ごろ寝している私にワイフが投げかけました。

 「あなた、会社では社長かもしれないけれど、家では子どものお父さんなんだからね!」と。

 子どもと遊ぶ父親であってほしい、洗濯や食器洗いなどの家事も担う夫であってほしかったからこその、ワイフの怒りだったのです。家族であることの自覚をうながすための、つまり、愛情の裏返しからの投げかけだったのです。


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