そんな三浦が18歳になると一時期オートバイレースに凝った。筑波サーキットと菅生サーキットのライセンスを持ち、先輩レーサーのメカニックを務めながら全日本選手権を転戦した。
「メカニックをしつつ僕も出場していました。一人でのめり込めるものが好きだったんです。エンジン開けて、ピストン換えて、なんてことを一人でやっていると時間を忘れて、何時間でもできちゃうんですよ」
その後、三浦は臨床検査センターに臨床検査技師の補助として就職した。そこで知り合ったアルバイトから、音楽業界にギターテクニシャンという仕事があると聞いた。
これがその後の人生を大きく変えるキッカケとなった。
「今から専門学校に通うよりも、直接現場に出た方がいいと思って、すぐに会社を辞めてライブに関わっていくようになりました。20歳の時でした。思ったらすぐに行動するタイプだったんです」
この時から「長渕剛のライブスタッフになる」ことを目標に掲げた、新たな道が始まったのである。
運命の松山
400kgのフォークリフトの下敷きに
2002年、愛媛県松山市。
あるミュージシャンのライブスタッフとして参加したコンサート終了後、機材の搬出をしている最中に400kgの簡易フォークリフトが倒れ、支えきれずに病院に運ばれた。
「三浦さん、下半身はもう動きませんよ」。検査を終えた医師から脊髄損傷であると告げられた。三浦にはその現実を受け入れるしかなかった。しかし、家庭では妻と2人の幼い子どもたちが待っている。下半身の動かなくなった自分に、今後何が出来るのか考えた。
「そうしたら過去に僕がやってきた仕事は、足が動かなくても出来ることがたくさんあると思えたのです。僕よりも、周りがどのように自分を受け入れてくれるか、それ次第で、これも出来るし、あれも出来る、これで暮らしていけるぞって考えていました。言い換えれば自信があったんですよね」
松山の病院には1カ月間ほど入院した。その間はふらふらしてイスに座ることも出来ず、体を起こすことも出来なかった。体を動かそうにも、どこをどのようにしたらいいのか、全然わからなかった。掴める力はあっても支える力がまったくなかったのである。